25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

時代遅れ

2018年01月18日 | 日記
 今日は若い弁護士と会った。36歳だという。タブレットパソコンを横に置いていた。こちらの質問に手際よく、答える。いちいち本を出したり、判例集などを探さない。わからない資料があればネットから取り出してくる。
 このような弁護士なら、なにもか早いだろうと思う。パソコンのできない弁護士なら、写真を送るにも、資料を送るのも郵便か宅急便であり、打合せもテレビ電話といかない。いちいち弁護士事務所まで行かなければならない。
 たいへん好印象を持った。
 弁護士の活動も、現在ではパソコンができるかどうかで左右される。弁護士事務所に電話して「おたく、パソコンできますか」と聞くわけにもいかず、看板に「パソコンできます」と書いてあるはずもない。「時代遅れ」というのはこういう高度な職業にも及ぶのである。
 ここ30年で仕事のやり方が様変わりした。「時代遅れ」を良しとする人もいる。しかしそれはプライベートなことで拘ればいい。例えば、議員で手書き原稿を議会事務局に持ち込み、事務局員にパソコンで打たせるなんていうのは、全くダメだと思う。

三人の関係性

2018年01月16日 | 文学 思想

 僕の場合、ブログは思いつくがままに書いていく。だから書くことに一貫性や終点がないときもある。

 映画やテレビドラマ、小説に接していると、漱石が生きた明治の頃と現代は格段と表現の幅や分野が広がっているし、ツールも違ってきている。

 それでふと考えてみた。純文学で提起できるテーマとは何なのだろうと。漱石は三角関係を追いつめた。つまり〈人間の関係性〉を主題においた。当時は夫のいる女性を奪うというのは「姦通罪」であった。友を騙して好きな女性を奪ってしまうことも「こころ」を読めばいかに人間が苦しむものかがわかる。

 現代では男と女の三角関係の問題は「別れ」や「離婚」がしやすくなったことで変化している。しかし人間の関係性においては繋がっていないといられない。ラインでもよい、グループ活動でもよい、とにかく人間と繋がっている状態がやや過剰になっている時代である。〈対幻想=一対一の関係〉の厄介さは現代では「ストーカー」を生み出していることだ。ストーカーに至ってしまうことが現代の文学としててテーマとしてあり得るだろう。また、対幻想の歪な形となって現れるDVも同じことなのかもしれない。テレビにも出演し、経済評論まで縷々書き述べる48歳の男が19歳の妻に暴力的行為に及ぶ、そのこころの裡もテーマとなり得るはずだ。

「夫と妻の物語」も、「母と子の物語」も、「父と子の物語」も、「働く者と働く場所の物語」も「客と店員の物語」も〈人間の関係性〉を突き詰めていく大きなテーマであるはずだ。

 現代のテーマはその他にもいろいろあるだろうが、漱石的な観点から推し進めていけば、観念の領域にある「共同幻想」「対幻想」「個人幻想」という故吉本隆明が提起した観念に思い至る。

 ホモ・サピエンスは虚構を作り出すことで他の人類より傑出してしまった。この認知・観念の革命がなかったら僕らはあり得なかった。虚構を作りだすということは、精霊や神を生み出すものであり、言語に喩をもたらすことにもなる。個人幻想は極めて共同幻想を抱え込むことになった。

 現在のSF映画を見ていると、映画作りをしている人の多くは宇宙に出る人間を描いているが、前提に地球が住むに難しい環境にあることになっている。そんな風に想像している。太陽のフレアによる地球環境の崩壊、ウィルスによるもの、核戦争によるもの。いずれもまずは悲観的である。きわめて〈人間の関係性〉とは縁遠い事象のように思えるが、基本はたった三人の関係性(つまり共同幻想、対幻想、個人幻想)が基本となっていることだろうと思うに至ったのだった。


孤独と孤立

2018年01月15日 | 文学 思想

 4年前までは若い人を相手にする仕事をしていたので、おそらく若さの感染がぼくにもあったかもしれない。

 今は若い人とめったに会話を交わすことはない。せいぜい、マクドナルドやTSUTAYAやイオンの可愛らしい店員とちょっと挨拶を交わすくらいである。

 若い人に伝えたいことは多々あるがそれはかなわない。

 家族は絆が強いようで、実は「意見」「主張」「思想」を述べるには一番遠い存在である。だから父親も、息子も当たり障りのないことでお茶を濁している内に、それぞれの思いはさらけだされないまま、先に父が逝くことになる。

 人には言いたいことがあるはずだし、知識や知恵を伝えたいものだと思う。

  現代はコミニュケーション技術が発達し、ブログやツイッターなどで自分の意見は言える。しかしながら読者は身辺にはいない。孤独を恐れてしかたのないコミュニケーションをとっている人も多くいるだろう。インスタ映えするといって、意味があるようには思えないが、人は頭にいつも火花が立ってないと寂しいのだろうかと思う時もある。見知らぬ人とのコミュニケーションは増えているが、孤立する人も増えているはずだ。孤立と孤独は違う。人間は一人では生きていけない。心が孤独になり、それが長く続けば社会的活動ができなくなる。つまり病気である。孤立にはまだ強い意志や頑固な心の張りのようなものがある。「孤立無援の闘い」などとも使うのは強い意志力がある。孤独である時期も必要とは思う。無理矢理に孤独を引き離すことはない。「孤立」と感じれば力も湧いてくるというものだ。

 

 


銀行に注目している

2018年01月14日 | 社会・経済・政治

 ハイブリッドカーに替えてからガソリン代が半分ですむようになった。

 ぼくらの経済判断は家族、周辺の町の様子、新聞やテレビニュースによる街角での地の声で、つまり感覚のようなもので判断するのがよいと思う。まず政治家や学者や経済評論家のいうことは当てにならない。官僚もだ。

 ぼくは政府の経済政策にまんまと乗り、失敗したことがある。当時は経済政策と金融政策はべつに仕立てであることも知らなかった。

 昔、ぼくが買った土地家屋は十分も一ほどまで下落分している。土地価格が上がっていかないので、壊すこともできず、廃屋になった家を多く見る。このまま子供たちが住まないことになれば、いつか誰かが壊さねばならない。そんなこtも考えておかねばならない。

 成人式の「晴れ着」サギは、見かけは値の張る着物であるが、それがレンタルであることが喧伝された。ああいう無駄なものにお金を使うなら、レンタルでよいと思うはずだ。ぼくはレンタルでさえ無駄だと思うが人それぞれなのだからしかたがないか。無駄こそ成長を促すと主張する経済学者もいる。この詐欺事件はいろいろな意味で時代を反映している。

 やはり世は倹約、節約時代で、貯金ゼロ円でも安心して暮らせる世ではないのだ。生涯で払った年金額が1950年生まれの人は総額7万円支給が多くなる、1955年生まれの人でプラスマイナスゼロであり、それ以降は年々減っていく。

 今年は経済も良さそうだ、とアホ顔していう者もいる。株価が高いことが経済がよいと思っている人もいるのだ。外国の機関投資家に売り抜けされたらどうするというのだ。

 尾鷲にいる限り好況感はない。東京に住む人も好況感があるとは思えない。家賃が高すぎる。この家賃を払って行くには夫婦共働きとなる。それが「女性が輝く社会」であり、「一億総活躍社会」である。しかしそれは詭弁である。女も老人も死ぬまで働け、おれたちに社会保障する力がない、という暗喩のように思える。大企業は外国債権の購入を増加させた。財政破綻への防御策なのだろう。銀行も生き残りに必死である。ぼくは大企業の内部留保の使い方と銀行の動きに注目している。

 

 


責任はだれがどうとる?

2018年01月13日 | 社会・経済・政治

 戦争をすれば軍需産業およびその関連産業が儲ける。国土が荒れれば、その復興のために建業や建設業およびその関連業が儲ける。そうして国民の経済は復興していく。

 この復興は戦死したものたちの犠牲で成り立っている面もある。アホな為政者の詭弁と浮かれやすい国民の共同幻想。

 詭弁は信じられやすい。株が上がっています。失業率はほぼ完全雇用を達成しています。

 こう言いながら、消費者物価2%達成を目指す、金利ゼロ、マイナス金利を導入します。これは国民の貯金を2%減らし、金利もほとんどなくすことを意味する。一方で、政府の借金は2%減り、借金の金利は限りなくゼロということになる。国民の懐から国にお金が移動するということだ。

 この国の政策に生き絶え絶えと抵抗しているのが、銀行や生命保険会社である。日銀の通貨供給量は400兆円ほどである。この400兆円が世に出回るととんでもないインフレ

となる。その防御を銀行や保険会社がしている。国民も無意識に節約している。日銀には銀行の当座準備金があまりに余っているのだ。わざと銀行は日銀に置いているのである。

 この抵抗もむなしく、三菱東京UF銀行で1万5千人のリストラを発表した。みずほも、三井住友銀行も大規模なリストラを行うと発表した。被害者は社員である。

 安全に利子と安全な運用を心がけていつ生命保険会社勤めや国民年金や銀行はこの低利息の中、株高であっても運用利回りはバブル前向きの十分の一ほどになってるいる。

 借金をしている人は政府と同様にチャラになり、貯金をしている人は紙くずになる恐れがある。つまり最終的な被害者は非正規雇用社員と年金受給者の約4500万人である。

 異次元の金融緩和策は急に止められないのだ。ブレーキのない車に乗ってしまったようなものなのだ。

 安部政権はこの政策を日銀とともに続けるしかない。そしてハイパーインフレになったら、戦争級の責任を取っ手もらおう。今彼が辞めたら困るのである。他の首相や日銀総裁では責任が転嫁できるからだ。


介護用品

2018年01月12日 | 日記

 ケアマネージャーのHさんも、介護用品を扱うTさんも母親の回復ぶりにびっくりしていた。

「さすが、今度は車椅子かち思いました」

 両側についた廊下の手すりは幅が広く、それでも両手を使って歩いていたが、Tさんがとても便利な車輪なしで、手で持ち上げて前に進む歩行器をもってきてくれた。それがもっも安定するようで、母は器用に使いこなした。

  夜のトイレ病院と同じもので、尿も吸いとってしまい、ポイとゴミいれにすてるだけでよいらしい。トイレはトイレの部屋にいくものと認知でぃている母はベッドのそばに置いてあるポターブルトイレをトイレ認知するか、忘れてぢまうのではないか、つい過去の習慣がでてしまうのではないか、とは心配事するが、まあ、それも、ままよ、である。

 靴下、下着、上着、パンツ、靴が自力でできるか確認し、車に乗れるか、家での行動チェックをし、また病院に戻って、車を降り、衣類を脱ぐまでチェックした。

「まだまだ生きますよ。たいしたもんですよ。いやあやるなあ、タツコさん」

 火曜日を退院日と決めて、水曜日から早速デイサービスにいくことにした。

 当面、また母の見守りが続く。介護用品はますます便利、機能的になっている。


一体どうなってるの

2018年01月11日 | 日記

タブレット故障でドコモに行ったついでに、ぼくのスマホの皮のカバーはないのか聞いてみた。

「ああ、これは3年半前のですね。ここにはありません。アンドロイドのスマホは半年で新機種がでてくるんですよ」

「古いというわけ?」

「まあ、そういうことになります。なんかスピードが早いんですよ」

「-----------」

 「タブレットのほうは故障しています。契約がまだ一年残っています。修理代をだすよりもゼロ円のDtab がありますから、それでいいのではないですか」

「Dtab ってアンドロイドですか」

「そうです」

「どこの製品ですか」

「外国です」

「韓国ですか」

「そうです。LG電子です」

「そうですか。それじゃあ今使っているSD使えますね」

「はい」

「めったに使わないので、それで結構です」

 ということで、無料であった。いったいどうなっていつのだろう。

 一体どうなっているのだろうと思うことが多い。現金で払うよりイオンカードを使ってくれるとポイントが余計につく、ということもある。Tポイントはどうやって商売しているのだろう。訳がわからないが、時代の潮に乗っているわけである。わからぬままに。

 こういう複雑怪奇な社会がくるとは四十年前には思いもよらなかったなあ。

 


あれやこれやと

2018年01月10日 | 日記

 母親が退院してもよい、と告げられて、大急ぎで、母の家のチェックをした。トイレ内をどうするか、ポータブルトイレに敷く物、ベッドからの立ち上がりから廊下にいくまでのつかまりバーのようなものを点検した。トイレに水漏れがあった。全部取り替える必要があるということだった。今あるカートを家の中でも使えるものはないか、介護備品の担当者と相談した。

 すると、スマホからこのブログの編集ショートカットが消えてしまっていた。復活させたら、今度はタブレットの電源が入らない。バッテリーは十分朝にはあった。故障かなのか。

 なんだかちょっとしたトラブルが相次いで起こることがある。今日はそんな日か、とまた思い、まあいいか、と思うことにした。

 明日あたりから冷え込むという。金魚、メダカ対策をどうするか、氷が張ることもなかろう、いやなにかで水槽を包んだほうがよいのではないか。

 今日は週刊誌をまとめ読みする日である。この一週間、また経済の本を三冊ほど読んだ。アベノミクス擁護派の意見、反対派の意見、さらに別の視点、科学という視点からデータに基づく意見を読んだ。総じて愚かな政策をとっている、というのが今のところの感想である。日本の株式の7割が外国人が売り買いしている。株高になれば7割も外国人が儲ける。命の綱である年金まで株高のために投資している。日銀もしている。引き上げれば、外国人投資家も売りに出て、暴落すれば、また買いにくる。抜けるに抜け出せない現状であることよ。

 イノベーションを起こすには日本の環境は悪すぎる。失敗を悪と見なす制度がある。企業に凭れていれば安心という気分がある。なにもしないのがよい経営陣だという経済停滞期の名残がある。

 あれやこれやと考えながら一日は過ぎていく。


間違えた時、間違えていない時

2018年01月09日 | 日記

 人は間違えたときに個性的である。だれが言ったか知らないが名言である。

 さて、白鵬。酒の席で殴らせておき、血が吹き出たらやめさせた。これはいただけないから、謝罪会見をするのがよい。が、しなかった。ここが個性的である。人気は落ちるだろう。

 横綱審議会のの役員を前にした相撲総見で、白鵬は張り差しをやって見せた。横綱がとる相撲ではないと、カチ上げと張り手をだす白鵬を批判した。これについても、反論があるなら記者会見をして言うにがよいと思う。これは間違ったことではない。しかし横綱としてどうか、と思う人もいる。

 張り差しは狙われれば不利に働くし、カチ上げもリスクが高い。それをする理由が聞きたい。ぼくはカチ上げも張り差しもよいと考えている。悪いのなら横綱審議会で横綱の禁じ手として決めればよい。14日からの白鵬がどのような相撲を見せるか興味深い。横綱審議員会に負けてはならない。堂々と相撲を取ればいい。強さを見せつければよい。

 経済がわかったような文を書いていた男が妻への暴行で逮捕された。彼はテレビカメラに向かい、クスリでも飲んでいるかのようにニタニタ笑いをし、視聴者に手まで振っていた。こいつイカれていると思ったのだった。

 救急車の救急隊員が緊急患者を送り届けてから、帰り道の途中で、自販機で飲料水を買って飲んだ。それを大阪市役所におかしいんじゃないかと通報した人がいた。大阪市は丁寧に説明を尽くした。通報する人ちょっと妙じゃないか、とぼくは思う。

 毎日何かが起こる。起こることには時代の背景がある。人は言いたいことは言わないし、言わずともよいことを言う奇妙な存在だ。


ショーン-コネリー

2018年01月08日 | 映画

 ぼくはショーンコネリーという俳優の相当なファンで、それは「007」のときからである。みなさんにぜひ見てもらいたい彼が出る映画がある。「ロシアンハウス」という映画である。映画そのものはたいしたことはないにであるが、音楽が素晴らしい。特にショーンコネリーがサキソフォーンをジャズバンドをバックに演奏するシーンが格好良すぎるのだ。

 老いてますますカッコよくなる人もいるものだ。

 最近、スマホのアプリにミラーをダウンロードした。勝手にされたといっていいのだが、これを起動させると自分の顔がスマホに映る。自分の顔はひどいもんだ。顔の部分のどこもが緩み切っている。醜い。

  映画俳優はたいしたもんだ。映画を撮るためとあれば身体の形や顔写真や髪に気をつけるだろう。仕事と思えば、身体も動いて、拭き掃除も、片付けも、草刈りもヒョイヒョイとやってしまうのと同じなのかもしれない。

 007 の「Sky Fall」(2012年作)は傑作であったが、ショーンコネリーのスマートな明るさがダニエル-グレーンにないのだ。

 ショーンコネリーのようになりたいな、とよく思うのである。


五十円玉の威力

2018年01月07日 | 日記

 年末頃、薔薇の枝を掴んでしまって、イタッ、とトゲが刺さった。中指の裏側にちいさな茶色のトゲがある。違和感があり、ちょっと痛むので、アルコールでふきかけ、毛抜きで取ろうと頑張った。がとれない。それでやがて溶けていくのではないかと思い放っておいた。正月、やはり気になるので、針でつついてみようかと思い、やろうとしたら、息子が

「五十円玉だして、穴の中心にトゲをあてて、ギュッとおせばええんや」という。彼はウニのトゲに、煩わされた経験がある。それで、ネットで調べたんだという。「蜂蜜を塗っておくとべたーやけど」と加えたが、アルコールを再度かけて、五十円玉の穴真ん中にトゲがくるように置く。それで五十円玉を押すのである。するちトゲが浮き出てきた。それを毛抜きで取った。チクチクした痛みもなくなった。「へエンー」とびっくりした。知恵ある人はいるものである。

  


ホモ サピエンス

2018年01月05日 | 

 人類に遺伝子の突然変異は再びないのだろうか。250万年前に、二匹のチンパージーがいて、一匹に突然変異は起こらず、もう一匹に人類への突然変異が起こった。SF映画を見ていると、ついそんなことを思う。

 別に超能力をもつ X menでなくてよい。なにかこれまでの人類ではもっていなかったもの。不要になったものでもよい。

 AIが作れる人間とAIに使われる人間が出てきた場合、つぎの世代の遺伝子はかわらないのか。音楽の天才は三世代を要するのと同じように、人間は能力によって分断されていくのだろうか。コンピュータが全くわからない人とわかる人とでは交信ができないという風に。

 取り残されていくものと進化していくもの。これがよいことか悪いことかはまだわからない。

 他だ確かなことは2000年以上前に人間が考えた内面の規範はいまでもりっぱに通じることだ。目に見えて存在しないものを存在すると考える人間の認知はおそらく永久に変わることはないだろうと思うが、AIが人間の二種の言語(指示表出と自己表出言語)から織り成す深いメタファまで読み取れるようになる頃にはわれわれ人間も滅んでいるのではなかろうか。地球の支配者は人間であると思えばそれは錯誤ではないか。人類が認知を持ったのは7万年前。農業を持ったのは1万5千年前。産業革命から急速に科学化したのは200数十年前。

 人間がどうなっていくかと考えると個人の人生はほんの一瞬の瞬きである。それでもかけがえのない大切なものである。今の時代に生きる人々が未来に繋いでいくもである。それはささやかな営みに延長にある。

 孫たちの70年後はどんな社会なのだろう。さらにそのこどもたちとなれば。


  


隠れ独裁政権

2018年01月05日 | 社会・経済・政治

 ぼくも含めて大衆というのは権力の意図に感染しやすい。愚かな時もある。進駐軍がやってきたら、進駐軍の方が日本政府よりもよかったので、暴動も起こさず、進駐軍の臨時政策を受け入れた。大衆にとってはよい権力者の方がいいのである。

 大衆をもっと言ってみると、収入のうち米や水道などの絶対消費と映画を見たり、CDを買ったりという選択消費の割合はすでに選択消費の方が多くなっている。政権が気に入らなかったら、選択消費のサイフを引き締めればよい。実は今の時代は消費者が政権を替えることもサイフの締め具合によっている。

 「財政ファイナンス」(政府が発行する国債を日銀が引き受けること)という禁じ手を使っている安倍政権は財政政策で必ずこの国を破綻させる。だからその責任を取ってもらうために次期も安倍晋三に政権をまかせようという法哲学者の井上達夫は言う。日銀が破綻するにせよ、それは国家が破綻するのと同じである。日本の借金対GDPの割合はすでに230%台になっており、アメリカはもしも230%台にいくには今後35年ほどかかる勘定である。アメリカはそうならないようアメリカの中央銀行FRBは慎重に管理している。

 お金をじゃぶじゃぶと流すと当然インフレが起こってくる。日本の場合IMFもてがでない膨大な額である。借金をしているものはいいかもしれないが、2%物価が上がれば、貯金の価値は2%下がることになる。ハイパーインフレになって、100倍上がれば、政府の借金は100分の1となる。国民のお金が政府に移動するわけだ。

 破綻したとしても臥薪嘗胆は5年から10年くらいで済むだろう、すっきりした経済はまた復興する。ぼくには政治家やそれをとりまく学者たちはこういうことは十分に知っていることだと思う。その代わり貯金は紙屑同然となる。

 一度税収から歳出を引いて余ったお金を借金返済に返すという政策を誰が取るのだろう。とれないとしたら借金は膨らむばかりで、やがて日本国の信用も落ちていくことになる。

 こういうことについて大衆は知らない。学者たちは口をつぐむ。パニックを恐れるからだ。戦後に一度同じことが起こり、ドイツでも起こった。その中でヒトラーが出て来た。

 政府は日銀にお金を刷らせ、お金は使い放題である。本当はこの日本は独裁政権となっているだ。マスコミも詳しく言わないからだ。権力をチェックするのがマスコミである。

 

 

 


満月

2018年01月03日 | 日記

 月夜の砂浜を歩くのが好き、という人がいた。月の光が海に注ぐ風景を見たことがある。それは荘厳な線状になって海面まで光が射して反射する光景である。見知らぬ男Aと女Bがいたらきっとまぐわってしまうかもしれない。それは丘の上に建つホテルのレストランから見たのだった。

 今年の三ヶ日の月はホモ-サピエンスにとって珍しくロマンンティクで、大胆であった。

 息子も孫娘もすこぶるルナティクであった。月が欠け始めたら息子たちは帰ってしまった。交替で、娘と孫たちがきた。2日の日に重なったのだが、食卓は中国の、大宴会のようであった。空には煌々とした満月が浮かんで覗いていた。

 スマホで一瞬にして月齢と月の形がわかる。新月と満月の日にバリ島ではほとんどの人がお祈りをする。月に祈るということは月が何かにつけて悪さをするからなのか、月によって自分が美しさと同等のような悪さをしてしまうことを防御するためか。ぼくは知らない。

 月は美しく姿を変える。隠す場合もある。古代の人々は形を変える月に不思議さを感じただろう。あの夜空に浮かぶ黄色いものは何?  何か関係がある。それが地球のような球であることを認知するまで人類は何万年かかったのだろう。

 「サピエンス全史」(ユヴァル-ノア-ハラリ 河出書房新社)を読んでいる。我々の時代は地球上で何年続くのだろうか。月を征服するのも間近いのだろうか。とりあえず、東京ーニューヨーク間のロケットが飛ぶ時代がくる。40分だと聞いた。5年後には商売開始だ。

 

 

 


村本大輔 大衆の原像からの発信か?

2018年01月03日 | 文学 思想

 普通に生きている人は政治的なむずかしいことを考えて生きていない。今日どれだけの魚が獲れるか、今日は何人の客がくるか、今日の上司の言葉は辛かった、もう少しやんわりと注意すればよかったかな、夜何食べるか、明日何しようかとか、そんな平凡なことだ。

 進駐軍が入ってくると、女どもは犯される、などと誰かが言ったのだろうが、軍国主義や戦争より、アメリカが来てくれて、様々な改革をしてくれても、庶民は今日、明日をひたすら逞しく生きていくだけだった。多くのインテリは黙ってしまった。

 政権がどうであろうと、法哲学者の井上達夫や政治学者の三浦瑠麗やジャーナリストといわれる田原聡一郎などが何を言おうと、あるいは日本政府が資金繰りに行き詰まっても庶民は当然影響を受け、悲惨なことも起こるかもしれないが、庶民は生き抜いていく。悪いこともあれば良いこともあるさと思う人もいるだろう。食べること、生き抜くことしか考えられない人もいるだろう。

 「大衆の原像」とはそんなものである。つまり根源的に殺される、殺すことを命じられる存在であるにもかかわらず生き抜く存在なのである。権力に従っているようで、大きな流れでみると権力を交代させてしまう力をもつ。(もっと細かく言えば、政権など大衆の財布のヒモでいつでも交代できる)

 ぼくは多くの人は「戦争なんていやだよ」と思っていると思う。その思いは同じでも、戦争を抑止する方法論についてまで深く考えないから、専門家が、ああだ、こうだ、お笑いの政治批判漫才をするウーマンラッシュアワーの村本大輔に対して「小学生」だというインテリまで出てくる。そpれは大衆にお前ら小学生だ、と言っているのと同じことだ。おまえはアホなんだから勉強して議論の場に出てこい」と言ってるように思う。三浦、井上、田原、落合、小林よしのり、長谷川東京新聞解説者らにとっては、村本は小学生なのだ。そしたら自分たちは何なのだ。マスコミで意見をいう人というだけではないか。自分はこんなに知っているんだぞ、と解説しているだけでないか。

 実はお笑いの村本はわざと大衆というイメージで言葉を発することをしたが、インテリは戦前に陥った穴にすっぽりはまっていることに気がついていない。たぶん大衆を知らないからだ。

 ぼくは、学校も満足に行けなかった父が遠くインド洋までマグロをとりにいき、老年期には沿岸で小魚を釣り、ときどき家で仲間と酒を飲んでいただけで特に政治や哲学のことも考えなかったことに違和感は覚えない。軍に徴用されたことがあり、お金が紙くずになったときでも物々交換で生き抜いた「戦争らあロクなことないじょ」が本音の唯一の政治的感想だったように思う。村本はまがりなりにも「大衆-庶民」ksらの本音を伝えたかったのだろうと評価する。