25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

西田昌司の迷妄

2018年03月15日 | 社会・経済・政治
 自民党参議院議員の西田昌司は「そもそも国民に主権があることはおかしい」という発言を身内の集会でしたという。この集会は日本会議関連のもだと推測するが、この意見は日本会議の主張そのものである。
 5.15事件、2.26事件、三島事件における青年将校や三島に賛同する若者らが、天皇には絶対の主権があり、国民と天皇の間にいる君側の肝こそがこの国を悪くしていると純粋な考え方をとった。日本会議が明治憲法に戻ろうと主張するのも、天皇を主権としたいのが主眼のように見える。
 現在の今上天皇やその家族たちはこれを望むかといえば、はなはだ怪しいと言わざるを得ないと思うが、日本会議の運動は実に巧妙で地方議員を取り込み、日本会議の事務局である日本青年協議会はあの手この手で活動を展開している。
 森友学園の籠池理事長も大阪日本会議の運営委員であった。そこには平沼赳夫、麻生太郎も、安倍晋三も名を連ねている。
 一幼稚園に平沼が行き、安倍昭恵が行き、維新の会のメンバーがいくというのは、不思議な話である。おおよそ全国に数ある幼稚園としては考えられないことである。
 さらに考えられないのは教育勅語を暗記させ、安倍晋三総理大臣を誉めそやす幼稚園児の言動に感涙するという異常さにぼくは驚く。日本会議の人脈を使いこなした籠池は国有地の払い下げに成功したとき、得意満面であったろう。
 
 歴史には段階がある。アフリカ的段階、アジア的段階、西洋的段階。そしてその段階のなかにも歴史が前に進むステージがあったことだろう。
 成長の家の創始者谷口雅春がどんな宗教者であったか知らないが、アフリカ的段階とアジア的段階を色濃くもつ宗教人であったのだろうと推測する。一般人100万人、兵隊100万人以上の犠牲のもとに出来上がった理想的な憲法を後退させるという思想なのだから、元成長の家原理主義者たちがリードする日本会議は危なかしい団体である。
 歴史の段階に宗教段階も同じように合致している。アフリカ的段階では雨乞いをしたり、雲を動かしたりと自然に対して人間がなんらかの作為をするアニミズムがステージ1で、つづいてステージ2が土地や山巨木など、そしてついには台所にさえ神が存在するという自然崇拝である。天皇の宗教的権威はアニミズムと八百万の神の上にアジア的専制制度が乗っているということである。西洋も同じ段階を踏んでいるが、アジア適用専制から早く脱したのである。西洋は内陸部が狭く山が多い。一方アジアは内陸部が広く農業が長い間に続いたし、人々は広く点在していた。王はインフラを受け持ち、庶民はひたすら農耕に従事し、王は忠孝を求めた。公のために私を捨てることを求めた。
 日本会議は日本をさらに自由になっていくとい世界史の無意識とは逆に後退しようというのである。このような迷妄は許されるものではない。
 西田や麻生や安倍は日本民族という言葉の曖昧さや日本語概念など考えたことがにのだろう。戦争のできる国にしていくことがいかに危ないものか、本気で考えているようには思えない。
 強い外交交渉力は強い軍備があるからできるなどという迷妄よりも、軍事力によるものではなく外交能力、言葉のやり取りを磨いた方がよく、それが次の段階に進む考え方である。
 国民に主権よりも個人それぞれに自由な主権を持たせる方向歴史はきっと進むと思う。

人間の存在の倫理

2018年03月14日 | 文学 思想
 例えば、少年が異常な殺人を起こした事件が報道されると、両親の関係はどうだったか、胎児から乳児にかけての期間、母親の心的状態はどうだったかということを思ってしまう。母親という個人と乳児の物語は、乳児のほうに合わせないと人間は一人前になっていかないからだ。人間は未熟のまま、中途半端に産まれる。乳児はお乳がほしい。母は忙しくてそれどころではない。乳児は眠くて泣いてしまう。母はイライラする。乳児は母に抱いてほしい。母はそんな時間がない。あるいは夫がお金をもってこない。これからどうするだろうというような経済的不安の事情もあるかも知れない。このように母の物語はその時の母の状況によって、乳児の物語と齟齬や背反を起こすことがある。
 すると、愛情ホルモン(脳から卵巣、卵巣から全身へとめぐる)が不活性となるかもしれない。一方乳児の脳、特に自律神経の中枢である視床下部やブローカー言語野、ウェルニッケ言語野、聴覚野
などに影響を及ぼすことだろう、とぼくは理解してきた。
 ところがこの問題に深入りすると、このような母を作ったのはその上の母であり、さらにその上と行ってしまうと、生命の偶然なる誕生のところまで行ってしまう。父親にしてもそうである。そしてそれぞれに時代の社会的環境がある。
 犯罪者である少年を法で罰するのは起こしてしまった本人である。父や母は刑罰の対象から外される。しかし、このような事件を他の少年に起こさせないためには少年が犯罪に至った本当の理由というか、精神の深いところを知る必要がある。だから親が悪いとなるのだが、親が悪かったら、その親の親も悪いということになってしまい、先にのべたように最後には偶然としかいいようがない生命の誕生まで遡ってしまわざるを得ない世界に行ってしまう。これでは埒があかない。
 親に「産んでくれといった覚えがない」「勝手に産みやがって」と反抗しても、それが空しい言葉だということは子供はなんとなく知っている。そして人間は嫌でも、好んででも生まれてきたからには、この世に存在するだけで、他者や社会に影響を与えるという倫理をもつことになる。
 ぼくも少年の犯罪は親も相当に責任があると考えてきた。ところが「生まれてしまった人間、この世にいるというだけで人間の倫理はある、と考えれば、ちょっと考え方を変える必要があるのか、と今この時点で佇んでしまった。
 このことを考えると、話が飛躍し、極端に思われるかもしれないが、戦争という超法規的な殺人は人間の存在の倫理に反する悪と考えることができる。乗客を乗せたまま世界貿易センタービルに突っ込んだテロリストも、「新しい戦争だ。正義の戦争だ」といって国民国家が戦争を行うのはもっと規模の大きな悪となる。人類の新しい段階として、戦争を観念的に追放しようとすれば、この問題を深く考え、意識されていくことが必要なのだろうと、思い至っている。また、

傲岸不遜な顔(麻生財務大臣)

2018年03月14日 | 社会・経済・政治
安倍政権が終わるとすれば、次の政権は大変困難に満ちた課題を背負う背負う政権になるだろう。まず第一に新しい政権は現在の「異次元の金融緩和」金融政策をどうするのだろう。続けるのか、出口を探すのか。また日銀がもつ株をどうするのか。年金機構がもつ株をどうするのか。安倍政権によってうたれた政策は安倍首相に責任を全うしてもらいたいと思うが、逃げてしまえば、次の政権が担うしかない。実は、森友問題が「逃避」の言い訳になるのではないかと心配する。
 田舎にいてはわからないことだが、銀行は有り余るお金をまたバブル期のように、自らの銀行改革を横に置き、不動産に手を染めている。友人に言わせると、アパートを買う、建てる、土地取引にはバンバンお金を出しているそうである。尾鷲にいては遠い国の話かのように聞こえる。株価も年金機構や日銀の買い支えがあって、二万円台を継続している。輸出企業は為替差益で内部留保するお金が貯まっている。
 日銀に有り余る国債。日銀保有の株。年金保有の株をどうするのだろうか。国債を発行しなくてもすむ時代はいつくるのだろうか。返さなければならない国債の借金を塩漬けにしてしまえ、という意見もある。もっと国債を発行して金融緊縮をするなという意見もある。
 安倍政権が続いたとしても、新しい政権ができたとしても、この問題は悩ましいことだ。国債というのは我々の貯金が使われているのである。銀行に預けたお金で銀行が国債を買い、それを日銀が買ってくれているのである。銀行は国債買い入れで日銀から利息をもらい確実にもうかるからだ。それが国民の貯金で国債を買ってもマイナス金利や超低金利によって銀行が儲からなくなってしまった。といって銀行は貸し出す先もない。本当は2045年の第四次産業革命のシンギュラリティに向かって新しい産業を育てなければならないはずだが、銀行にその能力はない。結局アパートを建てる、土地の取引をする、ということに貴重なお金を使う。政府は利益を生まない土建公共事業にお金を使う。借金で、である。
 このまま行けば、国民のお金が使い果たされ、戻って来ないといこともあり得る。日銀の信用が失われ場、あるいは政府の信用が失われば、ハイパーインフレはあり得ることだろう。そうなれば政府の借金は減ることになる。このことはつまり国民の貯金が減ることになるということだ。
 この国は相当危ない綱渡りをしている。
 経済学者たちがいくらテレビで言ったって責任は取らないのだから呑気な話だ。責任を取らされるのはそういう政権を選んできた国民なのである。その意味では民主主義の制度というのは皮肉にもよくできて。
 日本の権力者は責任を取らないのが慣例だから、これも呑気なものだ、麻生の傲岸不遜な顔を見ているだけでわかる。顔のどこにも清さというものがない。
 明治時代の憲法に戻ろうと唱える「日本会議議員団」の彼は顧問であり、安倍首相は副会長である。これでは先進国になりえない。歴史の無意識は「完全な自由」に向かっているのだ。。

庶民の暮らしがわからない人

2018年03月13日 | 社会・経済・政治
不思議なことがある。テレビ報道番組でも新聞でも、森友問題で証人喚問するのは「佐川元理財局長」と「安倍昭恵」の名前が挙がってくるが、安倍昭恵付きの伴の方(秘書的な仕事をするお付きの人)の名前がでてこない。確かイタリアの日本大使館に移動したのだった。彼女が電話なりFAXなりで、理財局とやりとりをしたはずだ。そういう証言が昨年なされた。
 森友問題で文書を改竄したのにはその理由があり、日本会議つながりによる安倍首相、安倍昭恵夫人が関係するからである。安倍昭恵夫人は籠池と安倍晋三が会ったことがあると動画の中で言っている。これに極右っぽい言い回しで、官僚の前で安倍夫妻との関係をちらつかされて、官僚の人事権をもつ官邸を忖度、斟酌したのだろうと外から見ているぼくらは思う。証人喚問するべき人は近畿理財局で自殺をした男の上司、佐川元理財局長、安倍昭恵、安倍昭恵の秘書、安倍晋三、麻生太郎であるべきである。
 財務省の最初の記録はとても詳しく書かれている。これも万が一のための官僚の知恵なのだろうか。
 安倍政権はムチャクチャである。自民党の衆議院議員山本幸三などは政府と日銀の「統合政府論」を堂々と言っている。ナチスが行った金融政策の反省のもと、政府と日銀は切り離され、日銀の独立性が保たれるようになったのである。先進国はこの「統合政府論」を否定している。

 日本国民、例えば、年金で暮らす人、賃金が上がらない人にとっては、2%の物価が上がれば、自分の持ち金が2%減るのである。物価目標2%上げが仮に5年続いたら、10%以上実質持ち金の価値が10%以上減ることになる。インフレ基調に乗せる場合、賃金も同様に上がるのかどうかが最も重要であり、年金も物価スライド制にするかが問題となる。なぜかしら年金生活者である老人は我が身を削ってでも安倍政権を応援するというのは不思議である。
 政府の借金は物価が上がれば上がるほど借金の価値は下がるから嬉しいことだろう。政府・日銀は株価を操作し、上昇させ、不労所得を得させようという、金持ちありきの政策をずっと行ってきた。輸出企業に有利なように、物価が上がるように円安を維持してきた。そしてシムズ理論のように悪性インフレを引き起こして、借金をチャラにしようとしているようにも見える。 

 輸出企業、株主優先もあるグループが内部留保できるお金をため込むことへの忖度である。国民はよくそれを許しているなあ、と思う。
 奢ってしまったのだ。財界からはのチヤホヤに。投資家からのチヤホヤに。安倍首相は庶民の暮らしなどというものはわからない人なのだ。
  

国家観

2018年03月12日 | 社会・経済・政治
 先進国の中で最も優秀な憲法をもつのは日本である。それは戦争を放棄しているからだ。戦争に正義の戦争もくそもない。戦争そのものが悪である。その戦争を放棄するというのだから多くの外国が羨むものであるだろう。この理念を後退させようとする勢力がある。時代を後退させるものだ。
 ぼくに理解不能なのは、石原慎太郎のような国家観をもつ人である。例えば尖閣諸島。石原や政府などは日本のものだ、中国側から言わせれば中国のものだという。国家観を緩めれば、あるいは開けば、
共同で統治する方法もあるはずである。北方領土にしても同じである。共同の委員会を設け、統治をし、ロシア人も日本列島人も自由に行き来できればよいことだ。
 国民国家の歴史などまだたかが知れている。日本では明治時代からだ。すでにヨーロッパはEUという共同統治体に変化している。つまり国家は開いてしまっている。強固な国家観が薄らいでいる。国家といえば、「政府」と意識する人の方が多いからEUは成立したのである。
 EUを脱退するイギリスはスコットランドと北アイルランドの独立問題を抱える。時を経てスコットランドも北アイルランドも独立し、EUに入ることも考えられる。そしてイギリスもとまたなるに違いない。

 フランスに友達がいる。彼は料理人であるが、八月の一ヶ月は休みをとっていた。日本では考えられないことだ。しかも一人あたりの生産性はフランスの方が高い。ヨーロッパ先進国は日本より一人当たりの生産力が高いのだ。日本列島人はよく働くようにしむけられている。生産性が低いのに、人手ふそくだと言い、長期の休暇は取れない。
 一体どうなっているのかと思う。思いきって、一ヶ月の長期休暇を制度化すれば生産性も上がるのかもいれない。市民革命を成し遂げたフランスはEU推進国である。自由に政治的意見を言えるのもこの国の良いところである。
 
 日本は戦後復興をすばやく成し遂げたものの、復興が頂点を迎えてから停滞が続いている。日本列島人の潜在意識のなかに抜けきれないアジア的段階やそれ以前のアフリカ的段階がある。それが石原のように顔をだし、若い橋下徹の同じ潜在意識にも共鳴を与える。国家を守るとはどういうことか。
 戦後進駐軍が入ってきた時、それまでの政府よりもアメリカ政府(進駐軍)政治の方がよかったではないか。教育改革も、農地改革も日本列島人はできなかったではないか。 国家主義的な思想は停滞を生むのではないか。
 一ヶ月の休暇制度をやってみてはどうか。石原はどう言うのだろう

日本列島人の弱み

2018年03月10日 | 社会・経済・政治
 尾鷲市の財政はかつてない危機だという。地方都市がほとんど同じ危機の中にいるのだろう。日本国そのものもかつてない危機である。
 1985年のプラザ合意により、ドル安が合意され、日本の対ドルは240円から、じょじょに上がり始め、77円にまでなったのおぼえている。その間、金融緩和策がとられ、お金が銀行に有り余るようになった。銀行は高度な銀行経営に変わるべきだったのに、土地にお金を融資し始めた。バブル経済となって、バブルの恩恵を受けたものは浮かれ調子で日を送っていた。
 バブルが崩壊し、経済はデフレ基調となり、日本の企業は軽薄短小の商品作りにいそしんだが、時代は製造業を中心とする資本主義から、消費資本主義へと姿を変えていた。大企業は第三次産業革命に乗ることができなかった。インターネットを深く考えなかったのだ。
 小泉政権も依然として製造業中心の資本主義経済の発想から抜け出せなかった。安部政権も同様で、相変わらず、東日本大震災の復興事業で堤防作りに精をだしている。建造物への公共事業に経済効果があると思っているのである。
 どんなに考えても1000年に一度といわれる地震と津波対策に堤防を作ることが今後どれだけの生産性を高めるだろうか。津波で破壊された家を希望するところに建ててあげたほうがよほど経済効果があったことだろう。

 公共投資をするべきところは第三次産業であるはずだ。すでに第三次産業は70%を占めるのである。ここに投資をしていれば、次の高次な産業を産み出せたかもしれない。第三次産業への従事者の賃金は少ない。非正規の社員も多い。堤防を何兆円もかけてつくるより、この第三次産業に従事する人々に賃金アップのお金を配るとか、介護や保育士賃金を上げるほうがまともに経済は好転するはずである。
 異次元の金融緩和により輸出企業の株価を上げても輸出産業は、為替のリスクを背負う。企業は円安になった分、海外で価格を下げて売ることはなく、生産高も上がっていないのが実情である。為替差利益を内部留保するだけである。
 このような経済、財政、金融政策で、つまり昔の資本主義にとらわれた人々の中から、アップルやマイクロソフト、グーグル、フェースブック、アマゾンのようなパラダイムを書き換える企業は出て来ないのは当然だ。
 それはぼくが住む尾鷲市でも同じだ。浦村は限界集落である。この集落の人々をごっそり旧尾鷲町に移住してもらい、人が住まなくなった浦村を産業区域に指定して、合理化、効率化することが必要に思えるが、抵抗はきついことだろう。すでにそのような施策もうてない財政状況であるが、このままでは消滅都市まっしぐらである。
 日本国も、地方自治体も変わることいやg抵抗を恐れて大胆な改革ができなかった。それが現在の膨大な借金となっている。企業も個人も財布のヒモを簡単には緩めない。政治家や財界人や連合のような組織に大胆なことはできないと見定めているからである。
 日本列島人の中に潜む横並びで和をもって尊しとする意識、資本のないものは起業しにくいというシステムなどありとあらゆる構造改革が必要に思えるが、一度破産してやり直しを図るほうが早いかもしれない。

栃ノ心が強い

2018年03月07日 | 日記
 稀勢ノ里がまた休場らしい。徹底的に怪我をなおすということなのだろう。次の場所がいよいよ正念場である。白鵬は、横綱らしさを求められ、日馬富士事件でも何やら暗い陰を落とし、精神的に気力がみなぎるものか、ぼくは心配している。
 当面栃ノ心に勝る力士はいないと思うが、今日の新聞で稽古中に左足のつけねを怪我したということで、翌日の稽古を休んでいる。力も入るし、蹲踞もできるというから
軽症なのかもしれない。現在の大関までの中で一番強いとぼくは思っている。勝つ型が出来上がってきた。
 貴ノ岩も申し合いまでできるようになり、十両の力士とよっても勝ち越している。ぜひ十両で優勝でもしてもらいたいものだ。
 今場所の楽しみは御嶽海と高安、栃ノ心、貴景勝であり、逸ノ城がまた化けるかもしれないという期待がある。
 相撲界に入る若者は少なく、有望な素質のある若者を探すのも難しい。被害者側の親方が罰せられ、加害者である伊勢ヶ浜親方は役員には立候補しなかった。日馬富士は伊勢ヶ浜部屋のコーチになるという。
 そう言えばいつも覇気のない遠藤は群を抜いた強さをそろそろ見せないと年をとって行くばかりだ。来週から大相撲が始まり、千秋楽の頃には桜も咲き始めるだろう。一年で一番好きな季節がくる。

調子がでてきた

2018年03月07日 | 日記
ようやく体の不調から脱しつつある。とにかく朝から眠くて、昼も眠くて、夜も眠く、この三日間はよく眠った。風邪薬をようやく飲んだからなのだろう。
 歯肉炎もおさまってきた。まだ本来の歯とまではいかないが、なんとか噛めるようになってきた。歯だけは死守したく、まだ頑張るつもりである。
 木蓮と花と木瓜の花が咲き始めた。庭の隅っこのほうに去年植えた白と黄色の水仙もひっそりと咲いている。

昨日の話の続きになるが、日本列島人は未来にどんな風にしているのだろうか、という問いにいつも思うことがある。それは大学生の就職活動での右も左も,だれもかれも同じような服を着ていることだ。つまり飛び出したくない。同じ格好で横一列に並んでいた方がよい。目立ちたくない、というように見える。おそらく彼らは企側も同じような思いで見ているに違いないと感じ取っている。
 企業側は優秀な人材を欲しいだろうが、はみ出るほどの人材を欲しくないのかもしれない。卒業生を一括採用するよりも、即戦力になる者をと、考える方が自然だと思えるがそうではないのだろう。

 保育園のある子がタコの絵を描いたら、みな同じようなタコの絵を描いていることに驚いたことがある。真似をしていれば楽なのだ。
 高度経済成長の日本人は真似については抜群の優秀さで、勤勉さと模倣力が高度度経済成長の原動力となった。次のステージではアメリカの若者が世界を牽引する力となった。発想の大転換ができず、ベンチャービジネスを育てる環境も作れなかった。ちょっとした便利な物を作る。そんな物作りの国となった。サービス産業が70%台になってもサービス産業の意味を理解した経団連や政治家は少なかった。サービス産業を製造業の下に見ていた。公共投資も一番人口の多いサービス産業に向けられてしかるべきだのに、サービス産業の割合が高くなってきても堤防のような無駄な物にお金を注ぎ込んできた。今もである。サービス産業従事者の賃金が低いことからもわかる。
 給料公共事業でできた物はお金を生みだし、今後消費を増やすのであればいいと思うが、1000年に一度の大地震と津波があったからと言って、堤防はあらたな物や人を生み出すものではない。
 就活をする学生たちは何を思いながら会社訪問をし、自分をアピールしているのかわからないが、人間の間で浮き出て嫌われることを恐れていては物事は成せないと思う。安心に染まっていては社内革命も起こせないだろう。安心は必要であるが、挑戦も必要である。就職活動で着ている服を見る度に男も女もだめだなあ、と思う。それが日本列島人なのかなあと思う。

 おとなしい集団を日本列島人は好むのか。イライラしながら就活生やそれに応じる企業を見ている。

科学技術と祭り

2018年03月06日 | 文学 思想
 戦後、荒地と化した日本列島は勤勉さと従順さで、1970年にはもはや世界の経済大国までになった。真似さえしておればよかった。そんな中で電気製品などで世界的なヒットを飛ばす物も現れたが、やがて他国に真似され追いつかれた。巨大化した日本の企業は第二次産業革命の恩恵を大いに受けたが、1990年代の革命からおいてきぼりをくうようになった。そしてついにはこの革命の主導権をとれず、アメリカに多くのITフォーマットを発明され、傘下に入らないと物も情報も扱えないようになった。

 テレビで夕方の番組で、各地の祭りや奇習が紹介される。たとえば、昔の共同体のメンバーが集まって「オコゼ」をお供えし、オコゼを見てアハハと笑う神事が紹介される。
あるいは毎年旧暦正月13日、42歳と25歳の厄年の男を中心に、尾張一円からサラシの褌に白タビ姿の数千人の裸男が集まり、寒さを吹き飛ばす「ワッショイ」の掛け声と、揉み合いの熱気が国府宮にはちきれる。また、裸になれない老若男女は、氏名や年齢等を書いて願いを込めた「なおい布」を「なおい笹」に結び付け、その「なおい笹」を裸男たちは担ぎ、群れをなして威勢よく境内へ駆け込み皆の願いと共に奉納する。そして「なおい笹奉納」の最後に、小池正明寺地区の手桶隊が登場し、その手桶隊が裸男達めがけて水をかけ始めて暫くすると参道の一角に全身無垢の神男が、警護の者に守られて裸男の群れの中に密かに登場する。その神男に触れて厄を落とそうと、神男に殺到し凄まじい揉み合いになる。浴びせられる手桶の水は、裸男たちの摩擦の熱でたちまち湯煙となるが、その手桶の水に裸男たちが怯む隙をついて、神男は参道から楼門を通り儺追殿を目指す。 この60分ほどの間がこの奇祭のクライマックスである。NHKの東海地区では毎年絶対にこれをニュースで扱う。もう春がくるぞ、よい春よ来い、と言いたいのだろう。
 建物を建てるに地鎮祭とやらを行う。外国人から見れば奇妙な光景だろう。これを「佳き伝統」と言えば言えるのだろうが、「奇妙な迷信」とも言える。また「わくわくするエンターテイメント」と言える。

 伝統を守り抜く力が強ければ強いほど、形式を破れないということがある。昔ながらのやり方をよく知っていて、それにこだわるからだ。ここのところはもっとこうしたほうが合理的ではないか、と誰かかが意見を言っても、昔からのやり方だ、といわれればそれまでである。

 地方のテレビはそんな祭事やらばかりを毎日のように報道するので、時々、日本人の頭は狂っているのではないかとシラッと思うことがある。神男に触れると厄が払えると本気で思っているはずもないと思うが、日本が荒地から高度経済成長したのは、祭りのように必死で働けば荒廃からの経済は右肩上がりでいくものだった。そしてオイルショック以降低成長となり、第三次産業革命を起こすことはできなかったのである。そして今もまた第四次産業革命の前に立ち塞ぐ、大きな借金があるという状況である。
 何か日本が停滞するのと伝統を守っていくの精神文化の上でリンクされているのではないかと思うのだ。
 科学技術まっしぐらに進むことをアクセルだとすれば伝統の維持はブレーキのような気がしてならない。科学と迷信。「わろてんか」ではてんが「笑うことはいいことだ」と「笑いを売る商売」に精を出すが、オコゼを探してきてそれを祀り、決まった日の決まった時刻に、決まった人がリーダーとなって決まった神事を行うことを疑問も持たずに続ける。伝統だから。やめるわけにはいかんから。おれのときに止めたと言われたくない。笑うことはええことやんか、なぜ悪い? いろいろ意見はあるだろうが、三重、鳥羽の神島ではゲーター祭が中止となった。来年も中止だそうである。小学校のこどもたちの手でほそぼそと続けるかもしれないということである。

 人手がいなくなり、やるのが面倒であれば祭りの意味もないと思う。意味あっての祭りであるが、ただ昔からやってきたからでは説得力がない。
 新しいコミュニテ-が自分たちのためのイベントを開くのであればそれは新しい祭りである。そしてそれは自身たちにとって賄えないときに終わりである。
 ぼくはそう考えている。



ドクトルジバゴをなぜ好むのか

2018年03月05日 | 映画
デビッドリーンの映画「ドクトル・ジバゴ」をなぜ僕は好むのか、風邪でぼんやりしている中で考えてみた。
 やはり、理由の第一位として、ジュリー・クリスティーという女優の起用にある。少女から母親までの時代の「ラーラ」を演じた。若いジュリー・クリスティーと成熟したジュリー・クリスティーが見事に演じ分けられている。ぼくは看護師として働く彼女も、ユリアーティの図書館で働く彼女も、その冬のファッションも含めて好きだ。要するにぼくはジュリー・クリスティーにイカレているのだ。
 映画の目線は絶えずジバゴを追う形となる。ジバゴは革命の歴史に翻弄されていくことになる。革命政府から失脚した夫をもつラーラも翻弄されていく。
 ラーラのどの場面を見てもよいと思うのは、一カットごとに考え尽くされ、デビッド・リーン監督が最も良しとした角度や陰影によって像が作りだされていることだ。監督もジュリー・クリステーの美しさを最大限引き出したいのだ。
 一方の主人公ジバゴを演じたオマー・シャリフはいつも控えめであり、ギトギトしたものもない、心優しい医者・詩人である。デビッド・リーンは主張し過ぎないキャラクターを表現できるものとしてオマー・シャリフを選んだのだろうと思う。
 ジバゴは野戦病院でラーラと出会うことになる。彼の倫理観も、知性もまだ保たれていた。モスクワの家を追われ、ベルキノに逃れるが、その先の町の図書館で偶然にもラーラと出逢うことになる。この時、ついに恋に火がついてしまうのである。妻子を裏切ることになる。不運がまた訪れる。帰宅中にパルチザンに拉致され、医師として従軍することを強制される。生涯妻子とも離れてしまうことになる。

 「ドクトルジバゴ」を好む別の理由として、心の動きが風景の描写によって表されることだ。恋をすればこれまで見えていたものが違った美しさで見えるように、ラーラを囲む風景も、ベルキノという別荘地も美しいものに変わる。

 最後に全編を通して流れる「ラ-ラのテーマ」である。雄大なロシアの地。仰ぎ見る空。この「ラーラのテーマ」がバリエーションを変えて流れてくる。
 二人の恋は寡黙である。恋をしてしまった罪悪感もある。しかし抗えないのである。罪悪を越えるものとして恋を描く思いがデビッド・リーン監督にあった。このテーマは「ライアンの娘」で徹底的に追求されることになる。なぜ、デビッド・リーン監督は「恋の喜び・美しさと裏腹にある恋の残酷」に拘ったのだろう。そのために映像を駆使し、莫大な資金を使ったのだ。

 考えていると「ラーラ」はわかりやすそうでわかりにくい女性である。自分を主張するセリフがあまりないからである。その後映画で「ラーラ的な役」を見たことがない。
 いよいよパステルナークの詩を探そうか、小説を読んでみようかと考えている。

熟睡の方法

2018年03月02日 | 日記
 糖質は脳で90%セント消費されるというから、思えば、夕食をとってから脳を使う仕事をしていると、糖質やらなにやらが不足になっているのかもしれない。だから眠りに入りにくく、浅い眠りのなかでを夢を見る。眠るにもエネルギーは必要だと最近思う。
 グリナという味の素の会社が頻繁に広告しているものはたんぱく質なのだろう。睡眠物質にメラトニンというホルモンがある。昼間太陽を浴び、身体を動かすと副腎皮質ホルモンが活発にでるが、これ夜になるとメラトニンに変わるのだから人間の体は不思議だ。
 子供は戸外で遊ぶから夜にぐっすり眠るのであるという常識。その常識を守れない自分。
 ぼくの場合、酒飲んでご飯を食べ終えると、睡魔が襲ってくる。時々眠ってしまい、時々我慢する。まだ寝ていられない。読書がある。たぶんここで頭を使う。就寝は1時とか2時だから、12時頃にバナナと野菜ジュースをとってみた。数年来ぶりに夢を見ることがなかった。これはいいぞ、とこれから寝る前の一時間ほど前に摂ればいいものを探しだそう。もう休まないといけない肝臓や腎臓の負担にならないように。
 
 思えば、睡眠不足が続いて、歯肉炎が起きたのだった。からだの免疫力がやや弱っていたのだろう。ついでに咳風邪をひいてしまった。そして2、3日前にこのブログで書いた一連のことが起こったのである。今終息しつつある。


仕事って楽しい?

2018年03月01日 | 文学 思想
 仕事を楽しいと本当に思っている人は何人ほどいるのだろうか。
 新橋辺りでインテビューでもしてみたらおもしろいのに。

 男A中年「バカヤロ!しかたねえじゃねーか。親の務めてなもんだ」
 男B二十代「ぼくはまだ新米ですからね。おもしろくもなんともないです。我慢です。我慢」
 女性A中年「当然やり甲斐があってやってるのよ。自分の能力が発揮される、う~ん、もっと言えば、       能力が発掘されるっていいものよ。我が子いに我慢してもらってもね」
 男C二十代 「辞めることができたら辞めたいですよ。仕事が楽しいだなんて、そんな人いるんです        か」
 男D定年前 楽しい時もあれば辞めたいときもありましたな。すんなりした道などはありませんよ。定       年後? 遊びたいですな。
 男性E 三十代 「経験を積むごとに、だんだんと自信もついてきて楽しくなるものです。楽しくやれなかっら辞めたほうが心身によいと思いますよ。

  というような会話が聞こえてきそうである。基本的に仕事というのはボスになったものが楽しいのかもしれない。資本家は配当と利息で生きている人だから、雇われる苦しさ、みたいなことはわからないだろう。
 本当のところ働くことから解放されたいってだれでも思っていると思う。月曜日が憂鬱なのはそのせいだ。
 そういう面で言えば、2045年のシンギュラリティ-(技術的特異点=9割の職種がなくなると言われている)は大歓迎で、みな働かなくてもいいようにしてくれれば、自分の好きな物に夢中になれるはずだ。ベーシックインカムさえあれば。
 で、思うのは日本の与野党を見ていても先進国で起こるように日本でも起こるのかという疑いで見てしまう。
 iPS細胞の山中教授は信頼できるような気がする。しかし政治家となれば、一部の選挙好きで偏狭な庶民をも肩に背負うことになる。結局日本は第三次産業革命の中心にはなれず、その間は停滞の20年と言われた。経済学者など科学者ぶってるからだめなのだ。予想屋である。競馬の予想屋のほうが毎日のことだから大変だろう経済学者って何する人。
そのことへの反省もないまま2030年が迫ってくる。この頃がAIやIoTなどが形となって現れてくると言われている。経済運営は危ういかじ取りで行われている。欧米が一人当たりの生産性をあげていく軌道に乗ろうとしている。
 そもそも第三次産業革命を起こせなかった日本の企業も嘆かわしいが、その理由が分析されなければならない。

 ところで、3日前から前の大きな古民家が壊されている。聞くと10はかかるという。若いもんのチームで解体している。