エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

季節の証明

2010年03月08日 | 日記
啓蟄(けいちつ)が過ぎた。
地中から虫たちが蠢(うごめ)き出てくる、というのである。

虫たちの姿を確認することはできないけれど、公園の溜池から鴨がめっきり減ってきたのである。



渡りの鴨である。
従って、全盛時期には池の水が隠れるほど集中する事もある。
ニ三年前に、太りすぎて飛べなくなった鴨が散見された。

人が餌を与えてしまうのである。
メタボ鴨は、渡りが出来ず留鳥になってしまう。

悲惨である。



彼らはつぶらな目をしている。
餌を与えてしまう人の心理が分からないわけではないけれど、やはり野生のままに生かすことが肝要であるのだ。

軽やかにV字を描いて渡る彼らの姿は美しいし、詩情を感じさせるのである。



カオジロガンの渡りの姿である。

非常に長い渡りをおこなう鳥がいる。
キョクアジサシ(北極圏ツンドラ地帯←→南極周辺海域・約32000km)や、ハシボソミズナギドリ(オーストラリアから北太平洋を右回りしオーストラリアへ戻る・約32000km)がその代表である。

地球を縦断、あるいは一周する距離を渡るのである。

移動の際の進路は、太陽や星の配置、地磁気、地形などから決めているとみられる。



この溜池のそばに大きな「くすの木」が聳(そび)えている。
葉は青々と光っている。

そのくすの木の下には、菜の花が咲きクロッカスの白い花が綻(ほころ)んでいるのである。



菜の花がちょっとだけ咲いている。
ボランティアの方たちが慈(いつく)しんでいる。



クロッカスも同様である。
ボランティアの方たちが慈しみ育てている。

愛情を注いでいる分白さが際立っているのである。

鴨も間もなく飛び立っていくであろう。
彼らは「渡りの鴨」なのである。

ところで、ワタリについての記述であるからにはもう少し触れたい課題がある。

働き場所や住み場所を転々とする人のことを「渡り鳥」と呼ぶことがある。

省庁や地方自治体の高級官僚が役所を退職した後、天下りで公社、公団、特殊法人、第三セクターなどを渡り歩いて退職金を稼ぐこともまた「渡り」と呼ばれ、社会の怒りを買っている。

渡り鳥にとっては大迷惑であろうと思うのである。



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紅梅、白梅を愛でる

2010年03月08日 | 日記
昨日は一日氷雨が降り続いて、ぼくを追っかけて来たものだ。

唐突だけれど、間もなく梅が終わるのである。
白梅の花は落花していて、木の下を飾っている。

そう、白梅は花の終わりなのだ。



これは紅梅である。
紅梅は、今が盛りとなっている。



白梅である。
そろそろ終わりを迎えんとしている。

梅の花は、古今東西絵画的に鑑賞されている。
襖絵(ふすまえ)や屏風絵(びょうぶえ)、あるいはまた漆工芸や螺鈿(らでん)工芸などで表現されていて名作が多いテーマでもある。

芸術的咲き方であるのかもしれないし、枝ぶりもまた意匠を尽くして伸びているのだ。
木も、年齢を重ねると苔が着いたりして樹齢を表現するのである。



梅よりも早く咲き、ほぼ同じ時期に花が終わるのが椿である。
これは、八重咲きの椿である。

淡いピンクが美しいのである。

この椿は、網フェンスに密着して咲いている椿である。
満開のときには、網の間から花が咲いてくる。

今は、フェンスの上に顔を覗かすのである。




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