エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

季節のたたずまい・・・気配を感じる感度

2011年04月19日 | ポエム
季節の佇(たたず)まいは、感度を研ぎ澄ます事から始まる。
感度の中には、当然「動体視力」の洗練も含まれる。



まるで生け花のようなたたずまいである。
ここに例えば桜吹雪が降りかかったとして、鋭く立ち向かえなければ感度が鈍ったと言わざるを得ないのである。



八重桜の枝には小さな赤い蕾が混在して、美学を完成させる。
八重桜の意図する美は、閉と開の媚であるのだ。






        季節のたたずまい



      季節のたたずまいは
      美と媚が混在した気配である

      気配は時として立ち上がり
      あるいは
      うずくまり
      あるいは揺籃する

      たたずまいは
      感度を高め
      磨き
      尖鋭化させ
      時として突き刺さり
      時として
      切り苛(さいな)む

      季節のたたずまいは
      誰の視点にも
      像を結ぶ
      それに気づくかどうか
      それが問われるのだ

      揺籃があり
      舞いがあり
      静と動とが混在する
      気配である

      季節のたたずまいは
      重層的
      多角的
      に織り混ざって一気に迫ってくる

      気づかなければ
      通り過ぎていく
      無遠慮な
      形而上の意識である






折り重なった桜花の花弁の只中にタンポポが咲いている。
ぼくはこうした佇まいが限りなく好きだ。






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こんな桜を見た事ありますか?

2011年04月18日 | 
林を歩いていると、ふっとした瞬間花が現れる事がある。
それは新鮮な感動を招来する。



この桜花の枝は、思わず通せんぼするように現れたのである。
桜の種類としては「カスミザクラ」である。

この桜は新緑の中で咲き誇るのである。



上を見上げたら、こんなにも綺麗に咲いていた。
嬉しい!



いまは、このカスミザクラに合わせるかのように「八重桜」が満開である。
東京で八重桜の名所と云えば「飛鳥山」「浜離宮」であろう。

どちらも見事に咲いてくれる。
ソメイヨシノのあとのお楽しみである。

因みに、祝い事の時に喫する「さくら茶」は八重桜の蕾を摘んで塩漬けにしたものである。



これも桜である。
「ウワミズザクラ」と称するのである。

長さ 6 ~ 8 センチの総状花序を出し白い 5 弁のちいさな花をたくさんつける。
総状花序の下、新緑の葉がついているのである。

誰もが「えっ・・・これって桜なの?」と反応します。
「はい桜です。」



石狩平野以南の北海道・本州・四国・九州に分布する落葉高木である。
蜜は甘いらしく、虫が多く集まってくるとも言われている。

まもなく桜の季節が終わる。
東日本大震災の余震が続いている。

一日も早い終息を願うのみである。
地震、津波、原発の三重苦に加えて、風評被害が加わって現地は塗炭の苦しさの中にある。
今日も、二か所で寄付をさせて頂いた。

お金の問題ではないけれど、精一杯の努力をしたいと思っているのである。
気持ちは現地に飛んでいる。





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桜花舞い、やがて葉桜へと移ろう!

2011年04月17日 | ポエム
林を歩いている。
周囲にはジョギング・コースもあるのだけれど、深い林に分け入って人の気配はあまり感じない。

空を見上げて歩いていても危険を感じない。
爽やかな空気が降ってくる。



入口ではレンギョウが迎えてくれる。
レンギョウの向こうは桜である。



まずは礼儀であるから前を見て歩く。



次いで空を見上げて歩く。



仕上げは、下を見て歩く。
季節の落し物が目を楽しませてくれる。

今は桜花の花弁である。






春の林を歩く



うらうらとして歩く
春の盛りを迎えんとする新緑が
新たな大気を吐き出している
新たな大気が
生き物のすべてに
纏わり
包み
豊かな子機に変えていく

春の林を
歩く
降り積む陽気は
降り積む一片にすら纏わる

色が
うらうらとする

ぼくの
気持ちもうらうらとする
春の
林を歩く






深い林である。
時折、遊歩道に出会う。

何人かに出会い挨拶を交わした。



目の前に一人の男性が現れ、一陣の風が吹いたのである。
桜吹雪が目の前を覆った。



遊歩道が桜吹雪で煙った。
心が乱れた。







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夜の桜花と昼の月を愛でる

2011年04月16日 | ポエム
昼の月である。
淡い感じで中空に浮いている。

まして、いまは桜花の向こうで面映ゆそうでもある。






        昼の月


      昼の月は
      輝くでもなく
      くすむのでもなく
      上空に位置するを
      良しとしているようでもある

      決して邪魔にならず
      威張るのでもなく
      じっと
      輝ける闇を待っているのだ

      昼の月は
      誇示もせず
      目立ちもせず
      じっと
      時間をやり過ごしている

      昼の月の
      そうした生き方こそ
      好もしい

      自ら光を発することもなく
      人の希望を跳ね返してくる
      人の胸に希望を叩き込んでくる
      そうして光る
      昼の月こそ好もしい






高く見えるけれど、実は手を伸ばせば掴めそうである。
羽衣の寓話が現実味を帯びたりする。

月は、物語を紡いできたのである。






        夜 桜


      あえかな光源を吸収して
      一片を浮き上がらせる
      夜桜の
      隠微な輝きに
      バッカスが綻ぶように
      笑った

      バッカスは笑った途端
      ゼウスになるのだ

      夜桜は
      花の中の王であって
      時として女王としても君臨する

      夜桜は
      色彩を変える
      金色に変わると
      夜桜は
      上花となって
      静やかな足運びで
      夜の時間を進める

      バッカスの笑いこそ
      夜桜を引き立てる
      カオスの根源である






夜桜である。
光源は駐車場の街灯である。

昼の月と夜桜は今だけの楽しみである。





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網膜の記憶

2011年04月15日 | ポエム
今日は満開の桜花が盛大に舞った。
満開に加えて風が強かったのである。

桜吹雪である。



一陣の風・・・舞う桜花。
日本画の一齣である。



今日は緑も見事であった。
この良き季節、記憶に留めておかなければと思う。

あと、何度網膜に映せるのだろうか。
丁寧に押し戴くように気候の引き出しに入れておこうと思っているのである。






網膜の記憶


網膜に映ったきみの顔が
深く刻まれてしまった
網膜のその裏側にこそ真実があると
きみは言った

ぼくにとって
その言葉は重いのだ
真実の事象こそが
テーゼであって
だがしかし
それを止揚する能力に欠ける
ぼくがいる

きみの環境が輪廻であるからと言って
その連関を断ち切れないのだ

転生する何億光年かをきみは待てというのか

ぼくの悲しみはそれほどの時間を待てない

ぼくに残された時間は
ほとんど刹那に近いのであって
退化し老化する時間の短さには
底抗しきれないのだ
流され落とされ振り回され
やがて疲弊した精神に占め尽くされてしまう
慰めは
いらない
ただきみが必要なのだ
おそらくぼくは
彼岸の彼方まできみを迎えにいくだろう
その岸辺は時間が止まると
誰かが言った
それは寓話であったのかもしれないが
真実の欠片がキラッと光って
ぼくの中に入り込んでいる
彼岸は遠いけれど
時間が止まってしまえば
なんの苦痛もない

きみという網膜の記憶が薄れることもなく
風化する事もなく
何億光年の彼方を
ぼくは目指そうと思う

幾万の事象を乗り越え
幾億の支障を払いつつ
ぼくは必ずきみに到達する
歴史がそれを語り始めているのだから

一つに幹から枝分かれした
ぼくらの時代
違う枝に迷い込んだら
許してくれないか
その枝から進化して
必ずきみの枝に繋がっていく
それが必然なのだから

網膜が恐ろしく清らかになって
一点の曇りすら拒絶したとしたら
忠実な画像を
きっと結ぶだろう
そこは新たなる地平
新たなる次元
新たなる交配
新たなる接触
そして新たなる訣別
新たなる旅路が広がっていくのだ

刹那の会合におののくことは
無駄な行為である
無益な行為である
その刹那に生きよ

網膜の退化を拒絶せよ
きみが確かに像を結ぶまでの
刹那






桜吹雪の中を行く自転車の子供。
晴れ晴れとした顔である。



網膜に記憶がある。
そうだとしたら、カンダタではなく、天国で蘇らせたいものである。



ぼくには蜘蛛の糸は不要だ。
必要なのは、痺れるようなベーゼである。

そう、ベーゼによって、君を見極められるからである。






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