goo blog サービス終了のお知らせ 

エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

紫陽花や

2012年06月25日 | ポエム
紫陽花が良い。
その色合いが良い。



とある「親水公園」である。

今しか楽しめない街歩き。
休みの日、街歩きを満喫するのである。



紫陽花を撮って歩いた。
この公園は一部、池の様な沼の様な水源があって、子どもたちがザリガニ釣りに興じているのである。



男の子も、女の子も一様に楽しんでいる。
楽しい公園である。







 「紫陽花の色合い咲くに任せたり」


 「紫陽花やまんまるの玉夢のごと」







紫陽花は詠われる事が多いのである。



だがしかし、花の色は毎年同じとは限らない。
紫陽花の色は紫陽花に任せるしか無いのである。



水が流れ花が咲く。
美しい景色である。



見上げたら「ザクロ」の花が咲いている。

その赤い花の着き方が良い。
自然の配剤とでも言おうか、見事なデザインである。
そして、魅力的な赤である。




にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へにほんブログ村
  荒 野人

オキナワ慰霊の日

2012年06月24日 | ポエム
沖縄返還40年の日。
慰霊の日である。



ここは平和公園である。

5月23日は、太平洋戦争末期のオキナワ戦を追悼する日である。
平和の礎(へいわのいしじ)では、親族の戦没者名が刻印された礎の前で膝まづいて祈る姿が見られるのである。

犠牲者の御霊に改めて哀悼の意を捧げたいものである。
この日までに、沖縄の島を歩く平和行進も犠牲者への哀悼である。
梅雨時だっただけに、今年は大変だったろうと思う。
例年だと、とうに梅雨が明けているはずだからだ。








 「慰霊する平和の礎守宮啼く」


 「ガマ暗く戦の無情夾竹桃」







美ら海(ちゅらうみ)に囲まれたオキナワである。
しかし、未だに戦後を引きずっている。
戦後は終わったと言う。
本当だろうか・・・。



この浜は「鳴砂」であり「星砂」が探せる。
珊瑚の粉で出来た浜である。

オキナワは、戦争を内包した島だ。
米軍の飛行機がしきりに離発着する。
そのエンジン音。

治外法権の基地。
米軍兵が日本の法を侵しても、あるいは犯罪を犯しても日本の法律で裁けない。
現実だ。

過日に続いて政治的な発言をしてしまった。
こうした内容になるのは「本意」ではない。

嗚呼、カニステルを浜で拾って食べたい。
甘い、ねっとりした果実である。

オキナワまで行かなくても、アンテナ・ショップで購入できる。
そうだ、銀座の「ワシタ・ショップ」に行ってみよう!




にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へにほんブログ村
  荒 野人

夏至に半夏生

2012年06月23日 | ポエム
21日、24節季の夏至であった。
一年中で一番昼が長い日である。

昨日は、朝方から大雨であって「沛然」と降った。
日本列島は、とりわけ太平洋側で洪水に見舞われた地域があって被害は甚大である。



だがしかし、夕景は美しかった。
そんな中の節季は悲しい。
ウキウキした気分では迎えられないのである。







 「夏至の後雨幾日か降りにけり」


 「食欲も少し増えたり夏至過ぎぬ」







夏至の夕景である。

ところで、アンニュイという言葉がある。
近頃の気候は、アンニュイな気分にさせられる。
梅雨特有の気分かと思っていたら、必ずしもそうではない。

森羅万象が乱れている。
そう思うしかない、地球という惑星が乱れているのかもしれないのだ。







 「草むらを白々染める半夏生」


 「半夏生慌てた君の頬の色」







半夏生という植物がある。
葉っぱが白く化粧していく。
従って「半化粧」とも書くのである。

なんともお洒落な植物である。



週明けには、日本の明日の方向が見えてくるのだという。
マスコミが、そんなに簡単に言って良いのだろうか?

ぼくたちの明日である。
ところで、正岡子規にこんな俳句がある。


 夏至過ぎて吾に寝ぬ夜の長くなる
             子 規


寝ない時間が長くなっていく。
冬至までがそんな時間の按配になる。

今に置き替えて、誰か寝られないのだろうか?




にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へにほんブログ村
  荒 野人

デジブック 『薔薇そして青嵐』

2012年06月22日 | ポエム
未明から沛然と雨が叩きつけているのである。
気温も急激に下がって、ぼくは知らぬ間に毛布を掛けていた。

夏薔薇も見頃が終わり、青嵐が世間を洗っているのである。
今日は終日雨だという。



せめて、薔薇と青嵐の575をお読みいただきたいのである。
多少は気分が優れるかもしれない。






デジブック 『薔薇そして青嵐』







立花さんは俳句結社「からまつ」同人である。
作風が既に出来ている。
羨ましい限りである。



かくいうぼくは、まだ悩み多き作句である。
俳句の世界では、まだまだ蕾にもなりきれていないのである。



「嗚呼、この句は野人のだな!」
と言われてみたいものである。






にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へにほんブログ村
  荒 野人

天気晴朗と云えども

2012年06月21日 | ポエム
天気晴朗と云えど波高し、なのである。
過去数回に亘って政治に関するコメントを残した。



今日は、コメントではなくぼく自身の思いを吐露しようと思うのである。
そうは言っても、そんなに膨大な情報を以て、かつ科学的に分析したものではないので簡単である。







 政党政治への弔句


 「時代過ぐパトスの在処青時雨」
    じだいすぐ
     パトスのありか
      あおしぐれ


 「繰言も戯言も云う木下闇」
    くりごとも
     ざれごともいう
      こしたやみ


 「過ぎたるも及ばざるも無し枇杷熟るる」
    すぎたるも
     およばざるもなし
      びわうるる







「今の政治の貧困は、ぼくの政治意識の程度であって、政治家たちを無碍に批判できない!」
といった思いである。
他者的な、かつ無責任な思いなのかもしれない。

だがしかし、中東や欧州の混乱、それも政治的・経済的混乱を見ていると日本の現状もまた同根なのだと知る。
それが辛い。

団塊の世代が生きて来た20世紀後半から21世紀のこの初頭まで、ぼくたちはどれだけ挫折を味わえばよいというのだ。

戦後の食糧難の時代に生まれ育ったぼくたちの時代。
だがしかし、きっとぼくたちの親には夢も希望もあったに違いない。
小学生の時、先生に引率されて日曜日に出かけた「愛宕山」の頂上。
先生に頂いたその時の集合写真の裏に「ほんとうはもっと立派ですが、貧しくて」とペンで書かれていた。



時代閉塞を打ち破るべく立ちあがった学生時代。
自由に憧れた子育ての時代。
バブルと言われた好況の時代を作り上げた努力。
文化すら新たに作り上げて来た自信に満ちた時代。

今、それらのことごとくが否定されつつあると感じるのだ。



保守党の一党支配にピリオドをうって、今の政権を誕生させたときの期待。
そのパトス。
あの時の熱狂!



イズムに生きた時代は既にもう過去だというのか。
そう、過去である。

今国会の与野党の駆け引きを見ていると「政治ごっこ」にしか見えてこない。
国民の期待は、彼らの議席には関係ないとでも言う様である。
民主もだめ、自民もだめ。
では責任をもって、日本を導くのは誰なのだろう。

いま、あのオウムの信者が確実に増えつつあるという。
カルトに希望を見出さざるを得ない現状が、ぼくたちの前に大河となって流れてでもいると言うのか!

自民党も公明党も、天に向かって唾を吐いている。
民主党は顔を背け、舌をペロッと出している。
乱立している小政党は、我田引水の主張に終始している。

嗚呼!
今改めて痛みをもって時代閉塞を生きているぼくたちである。

今日の夕焼けは凄かった。
この夕焼けを仰ぎ見ながら、政治はすべきではない妥協に向かっているのである。
唾棄すべきは・・・誰に向かってだろうか。






にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へにほんブログ村
  荒 野人