エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

秋の積乱雲

2014年09月15日 | ポエム
秋・・・。
雲の峰が湧きたち、夜に入ってから雷の後に驟雨があった。



ここ二日間、比較的過ごしやすい湿度だ。
肌合いはサラッとしている。

朝寝の快適な事・・・。
昼寝の健やかな事・・・。
午後寝の不謹慎なほど爽やかな事・・・。

要するに、24時間過ごし易いのである。







「秋の雲猛々しくも地から湧く」







雲の峰である。
重厚で、侵し難い領域が広がっているのだ。

秋・・・雲の峰の見頃である。
秋・・・誰でもが詩人になれる季節。
秋・・・時間は静かに移行していく。
秋・・・風が生まれる時が見えるのだ。



夕方、光芒が空を覆った。
ダ・ヴィンチが筆の先を刺したようである。



       荒 野人

水木の実

2014年09月14日 | ポエム
ハナミズキの赤い実は、不思議だ。
艶々としている。
食べたら、美味しそうなのに誰も食べない。



同時に咲き、同時に実を付けるヤマボウシとは違う。
この実は、甘く美味い。



不思議な空の下、ぼくは遊弋したのであった。







「小悪魔の赤く小さき水木の実」







今年は、まだ秋茜を見かけない。
秋が深まろうとしているのにだ!

いとこ会で義兄が言っていた。
高尾辺りでも、殆ど目にしないそうである。
今年の大雨で、ヤゴが流されてしまったのでは・・・そう言っていた。



散歩の途中、池で交尾している赤蜻蛉を見つけた。
チョンチョンと、池の面に産卵しているのであった。

なんという出会い。
可愛いやつだ!

ぼくの内部に秋が、忍び込んできたのである。



        荒 野人

柘榴坂の仇討

2014年09月13日 | ポエム
浅田次郎原作の「柘榴坂の仇討」の試写会に出かけた。
昨夜のことである。



季節は秋。
まだまだ東北の一部と北海道の太平洋側では、天候不順が続いている。
明日一杯は要注意だという。

是非、身を守って頂きたいのである。



最近の映画では、秀逸である。
感動では無い・・・共感と云う波に揺さぶられるのだ。

それも、見終わってから共感という波が押し寄せてくる。
キャメラ・ワークも素晴らしい。
久石譲の音楽も豊かで、スクリーンにぼくたちを引き込もうとする。



秀作である。
中井貴一が光る。
中井貴一の一個の個性が光るのである。

あたかも、鏡のようにぼくたちのアイデンティティを照らし出す。
否、ぼくたちの主体性が問われるのである。
中井の台詞の間が、素晴らしい。

中村吉右衛門の存在感は流石である。
鬼平の殻は、とうに破っている。







「銀幕に影映し飛ぶ秋の虫」







吉右衛門の存在感は、井伊直弼はこうであっただろうと推測させるのである。
広末涼子は「ぽっぽ屋」から突き抜けたけれど、吉永小百合の放つ気高さや知性、あるいは人間の深みが感じられない。

ここ止まり・・・だと思わせる。
これからは、老(ふ)け役を無難にこなす程度だろうか。

阿部寛の眼力は、光るけれど台詞の切れに欠ける。
沈黙の演技は秀逸であるけれど・・・。

中井貴一の総力には、まだ肉薄しえない。

御一新の時代、日本人のアイデンティティが鋭く問われていた。
中井はその問いを、静かに波が浜辺を濡らすように問いかける。
忽ち、ぼくたちは共感の渦に巻き込まれるのだ。
陳腐な感動では、断じて無い。

映画が終わって、バタバタと座席を立って帰路に向かう人がいる半面、多くの観客が館内が明るくなるまでシートに身を任せているのであった。

今月20日から全国ロードショーである。
共感して頂きたいものである。




        荒 野人

彼岸花

2014年09月12日 | ポエム
そろそろ咲くのだろう。
ぼくの好きな散歩道で、蕾が膨らんできたのである。

ウキウキする。
もう残暑はないと確信できるからである。



埼玉県の巾着田では、まだまだのようだ。
けれど今年は出かけようと思っている。







「彼岸花蕾にふっとかける息」







赤花はこんな風な蕾状態だけれど、白花は咲いている。



白は、突然変異だという。
だがしかし、毎年この球根は白を咲かせる。

球根に毒があるのは、誰もが知っている。
だからこそ、田んぼの畦道に連なるように咲いている。
もぐらも、忌み嫌うからなのである。



この蕾開くのは、間もなく。
週末には開くであろう。

楽しみである。



        荒 野人

桔梗咲く

2014年09月11日 | ポエム
我が家の桔梗が開いた。
白花であった。



紫だと思っていたので、少しがっかりしたのだが・・・。
それでも季節を運んで来てくれたのだから、嬉しい開花である。

パネルの色を変えて、撮影してみた。







「きちかうの由々しき自体白き花」







どの色合いが合っているだろうか?
桔梗は「きちかう」とも「ききょう」とも読む。

五七五で詠う時に、都合のよい詠みあるいは語呂も良い詠み、どちらでも可能である。
俳句って、自分勝手な部分があるのだ。
つづめたり、長めに発音したりする。



従って、どの色合いが良いかなどは自分の感性で判断する。
それが俳句の良いところである。

歳時記の季節分類なども、自分の感性が優先されて然るべきである。
俳句の発展のためには、がんじがらめの古い感性や季節感は馴染まないのである。



       荒 野人