エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

黄水仙

2017年02月18日 | ポエム
何回目だろうか・・・。
黄水仙の俳句を詠む事、である。

水仙が、ナルシシズムであるのは言を俟たない。
だから水仙こそ、限りなく美しい。



黄水仙は、唯一受動的な花言葉になっている。
「私を愛して!」
である。







「愛されると云ふ素直さ黄水仙」







野水仙について、詠んだ人がいた。
ネットでも探したけれど「野水仙」という範疇の水仙は幾ら探しても無い。
当人に聞いていないけれど、おそらくふとした場所にある水仙なのだろうと思惟する。



とまれ、水仙の美しさに着目する人は美しい。
そうでなければ・・・ならない。

ぼくは、水仙の美しさに素直に瞠目するのである。



    荒 野人

節分草

2017年02月17日 | ポエム
愛らしく、且つ小さい。
してみると、可憐と云う事ではないか・・・。
然り、然りである。
この節分草、万作とロウバイの木の下に咲いているのである。

正しく『春』の様相である。



スプリングエフェメラル、である。
『春の妖精」であるのだ。
場所は、昭和記念公園「木洩れ陽の里」のエリアである。



誠に丹精込めて育て上げた、と分かるのである。
花の下には「敷松葉」があって、暖かく守っている。



褥の柔らかさこそ、丹精の言葉に相応しい。
職人の仕事である。







「妖精の微笑んでおり節分草」







去年も、ここで出逢った。
今年も出逢えた。



来年も亦、出逢えるだろうか・
出逢いたいものである。



     荒 野人



メジロの遊ぶ

2017年02月15日 | ポエム
可愛らしい・・・そうとしか云いようが無いのである。
極めて小柄なのだけれど、存在感は極めて大きい。
メジロは、夏の季語なのである。
けれど、野に出る春にこそ出会える小鳥なのだ。
春のメジロこそ、感動的であるのだ。



河津桜とメジロ。



梅とメジロ。
どの姿一つとっても、可愛らしいではないか。







「花の陰遊び呆けるメジロいて」







昨日、風はあったけれど比較的暖かかった。
その暖かさの間隙を縫って、近所の梅林に出かけたのであった。



七八羽のメジロが、遊びに興じている。
遊びと云うより、梅の蜜を吸っていたのであった。

ちょこっとした動きが、捉えにくく夢中で追いかけ回したのであった。
義経のように、或いはまたツバメのようにすばしっこい。



以外だけれど、花の周りでヒヨドリも遊ぶのである。
しかしながら、ヒヨドリの遊びは少しばかり鈍重である。



    荒 野人

北帰行始まる

2017年02月14日 | ポエム
渡りの宿命、である。
彼らは、再び長いシベリアへの旅を始めるのだ。



ここオッペ川のコハクチョウたちは、滞留している数がほぼ半分になっている。
既に、半数は旅立った。



彼らには『旅情」などの感慨は無いのかもしれない。
いたいけな感じは、全くない。
感じられないのである。







「おおらかな翼の力北帰行」







昨日は、句友とともに出かけた。
彼は、人を驚かす表現の力を持っている。
同時に大きな「景」を的確な言語表現で、提示するのである。

この日は、夕方にコハクチョウが帰ってくるまでの時間を河原で過ごした。



空が茜色に染まり始める頃、コハクチョウたちは次々に帰ってきた。
優雅に、舞いながら帰ってくる。



河原は、俄に賑やかになる。
一寸した「小競り合い」もそこここでおきる。
彼らのエネルギーを感じつつ、帰宅の途についたのであった。



    荒 野人

白梅

2017年02月13日 | ポエム
白梅が、叙として咲いている。
一斉に花開く事は無い。

綻んでいるからである。



紅梅との違いを楽しむのは、心地良いのだ。
白だけではアクセントが無い、と言い放ったりするけれど・・・。
白梅だけで、楽しむ縁(よすが)は多いのだ。



青い空と黒い幹の、そのコントラストは逞しい。







「白梅や黒き枝から空に映ゆ」







今日はこれから、オッペ川の白鳥に再会しに出かける。
既に、北帰行が始まっているらしい。

大空を遊弋する、白鳥と出会えるだろうか。



白梅に寄せる、仄かな恋心。
それが白鳥と重なってゆく、のである。

仄かな梅の匂ひ。
琴線に触れる、白鳥の優雅な舞い。
どちらも、自然の営みの豊かさである。



     荒 野人