自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

★草の根グローバリゼーション

2015年01月04日 | ⇒ランダム書評

  昨年3月に購入し、「積ん読」状態にしていた『草の根グローバリゼーション 世界遺産棚田村の文化実践と生活戦略』(清水展著・京都大学学術出版会)をこの正月三が日で読み切った。購入したきっかけは、本のタイトルだった。「草の根」と「グローバリゼーション」は相反するような言葉に思えるのだが、それをうまく統合して読み手のイメージをかきたてる。そして、本の終盤でその意味を謎解きし、「なるほど」と唸らせるのである。以下、勝手解釈で述べる。

  著者は京都大学東南アジア研究所に所属する文化人類学者。研究者の著書は読み辛いものなのだが、ジャーナリストのルポルタ-ジュを読んでいるような感覚でリズミカルに読めるのである。それは、本人が学術書というより、ルポを意識して書いているからだ。時には少し自らの感情も込めて。それは本人が第9章~「山奥どうし」の国際協力~で述べているように、1991年のフィリピン・ルソン島ピナツボ火山の噴火を目の当たりにして、それまでの文化人類学者の「冷静な観察」から踏み出して、「現場の問題と深くコミットしていくことを選んだ」といい、それを「コミットメントの人類学」「応答する(協働する)人類学」と称している。気が入っているから読みやすい、読ませるのである。ただ本人は「現場に深入りしたら研究ができなくなるかもしれないと恐れつつ」と躊躇したことも吐露している。

  本の主題はピナツボ噴火の被災地支援から同じルソン島イフガオの棚田を守る植林運動の2つのステージで関わった人々、村の現状をつぶさに観察すると、とてつもなくグローバル化していて、そして、その2つの支援活動に乗り出した兵庫県丹波篠山のNGOの活動の在り様が、フィリピンの山奥と日本の山奥のローカル同士の連携であり、「人々の生活をグローカルに再編成」であり、「希望の所在」と説く。

  著者がイフガオで関わった人々がユニークだ。イフガオ出身でOECD(経済協力開発機構)本部の国際公務員を辞して地元に戻ったキッドラット・タヒミック氏(映画監督)、その親友で植林運動を先導するロペス・ナウヤック氏ら。彼らは、先住民イフガオとしてのアイデンティティーを持ち、ローカルとグローバルを結び付けようと活動している。まさに「国際人」でもある。そして住民もまた香港、台湾、ドバイ、イスラエル、オーストラリア、カナダ、アメリカ、イギリスなどへと家事手伝い(DH)、介護人、技師、職人、労働者として「海外出稼ぎ」に行く。しかも、英語ができる大学卒の高学歴者が海外就労に出かける。

  私はこれまで4度イフガオに出かけている。「グローバル」という言葉を現地で体感することがある。それは、村長であっても、学生であっても、スピーチがとても洗練されていることからも感じる。取って付けたような「田舎臭い」言葉ではなく、自己の置かれた立場の紹介、自分が分析するイフガオの現状の説明、自分ができることの可能性の3点をさらりと述べるのである。スピーチだけではない。フォーラムやワークショップといった発表の場づくりは色あいのよい看板、花飾り、民族踊りのアトラクションといった「場の演出」が必ずある。そして会場の雰囲気に堅苦しさがない。

  著者の結論が第10章~草の根の実践と希望-グローバル時代の地域ネットワークの再編~でまとめてある。6つの節のタイトルが面白い。「1・宇宙船地球号イメージ」「2・共有地の悲劇、あるいは成長の限界」「3・暗い未来に抗して」「4・グローバル化と地域社会」「5・『グローカル』な生活世界」「6・遠隔地環境主義の鍛え直し」。日本人の多くは地域は少子高齢化で廃れると思い込んでいる。ところが、イフガオでは農業離れによる棚田の存続という問題を草の根のグローバル化(人々の海外出稼ぎやNGOとの連携)をとおして、国境を越えて日本やアジアや中東、欧米と結ばれるネットワークをつくることで問題解決しようと外に向けて努力しているのである。本章の締めくくりで筆者が述べている。「草の根の小さな実践を導き切り開く、希望の所在である」。これは日本のローカル課題の解決に向けたヒントではないだろうか。

⇒4日(日)未明・金沢の天気     くもり


  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする