松井だからなれる「日米野球文化の懸け橋」に

「今回あなたの闘志あふれる守備のため、負傷したことは、誠に残念です。しかしながら、これからの活躍のための一時の休養であると考えていただき、(中略)一番都合の良い夢を見てすごしてください。(中略)私も30回に及ぶ手術を受けましたが、次のコンサートのポスターをはって、あのステージにたつんだと、気持ちを奮い立たせました。(中略)お互い、仕事の世界は違いますが、世界を相手に、そして観客の前でプレーすることには変わりはありません。私も頑張ってステージに戻ります。」(岩城から松井への手紙)
岩城と松井の直接の接点はない。ただ、岩城は松井の故郷である石川県に拠点を置くオーケストラ・アンサンブル金沢(OEK)の音楽監督をしていた。そして常々、「このオーケストラを世界のプレイヤーにしたい」と語っていた。岩城さらも、20代後半にクラシックの本場ヨーロッパに渡り、武者修行をした経験がある。その後、NHK交響楽団(N響)などを率いてヨーロッパを回り、武満作品を精力的に演奏し、日本の現代曲がヨーロッパで評価される素地をつくった。
岩城は挑戦者の気概を忘れなかった。2004年春、自らが指揮するOEKがベルリンやウイーンといった総本山のステージを飾ったときの気持ちを、「松井選手が初めてヤンキー・スタジアムにたったときのような喜び」と番組のインタビューに答えていた。クラシックのマエストロは、野球の本場ニューヨークで奮闘する松井の姿と同じ心境だったのだろう。
もし、岩城が生きていたら、今の松井にこんな手紙を送ったかもしれない。「これからの活躍のための一時の休養であると考えていただき、一番都合の良い夢を見てすごしてください。あたなたは日本とアメリカの野球のことをすでに熟知された。これからはニューヨークに在住しながら、できればアメリカの大学に入って野球の歴史と文化を学び、そして日米野球文化のアーチ(懸け橋)になっていただきたい。あなただからそれができます。」
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