大学でマスメディア論の授業を持っていることから、新聞の切り抜きは絶やさないが、きょう30日の朝刊ほどマスメディア関連の記事スクラップが多い日はなかった。
「期待権」とメディアの奇観
列記すると、各社一面を飾ったのが、NHKの番組が放送直前に改変されたとして、取材を受けた市民団体がNHKなどに総額4000万円の賠償を求めた控訴審判決で、東京高裁が取材された側の「期待権」を認めてNHKに200万円の賠償命令を命じたニュース。さらに同じ一面で、裁判員制度フォーラムを共催した産経新聞社などが謝礼を払ってサクラ(参加者)を集めていたこと。
そして、社会面や特集面などでは、「あるある大辞典」の納豆データ捏造事件の続報の見出しが躍っている。「関テレ、看板失墜で広告減も」「ひっかかりやすい中高年女性に照準」など…。 NHK、民放、新聞社がこれだけそろって、マスメディアネタになることは稀有なこと。しかも、一面と社会面のトップを独占しているのである。まるで、マスメディアが自家中毒でも起こして悶え苦しんでいるような、まさに奇観である。また、その当事者のコメントを読むと、版で押したように、「信頼回復に努める」と。
欧米のメディアは今、新聞の紙面改革や身売り、放送メディアは合併の嵐が吹き荒れている。インタ-ネットの普及拡大で、メディアそのものの利用価値が揺らいでいるからだ。いわば存在価値が問われ、構造改革に迫られている。ウォールストリート・ジャーナル(WSJ)は新年から従来の紙面の横幅を38㌢から30㌢に縮小し、つまりスリム化してコスト削減と紙面の改革(解説・分析記事を50%から80%に拡大)を図っている。改革の痛みに身悶えしているのである。早晩、日本にもこの改革の嵐が来る。あるいはその序章としてスキャンダルが噴出しているのかもしれない。
それにしても、NHKの今回の裁判はこれも奇観である。取材される側が番組内容に対して抱く「期待権」を高裁が認めたのである。こうした「期待権」が取材のたびに常に成立するとなると、おかしなことになる。たとえば、あるテーマで政治家にインタビューしたとする。ところが取材を重ねていく過程で編集方針は変化するものである。そして別の政治家にインタビューすることになり、先の政治家のインタビューを反故(ほご)にするとういケースが生じる。放送後に「期待権」を盾にとってその政治家が「なぜ私のインタビューを使わない。だいたい番組は私がイメージしていたものと異なる」などとねじ込んでくる可能性があるのだ。
こうなると「編集の自由」はどうなるのか。判決では今回の「期待権」は例外的としているが、それでも一度認められると拡大解釈される。そのつど裁判をやり、このケースは例外であるのか否か認定をしなければならなくなる。この意味で、今回の判決は単にNHKではなく、メディア全体にかかわるやっかいな判決であると言っても過言ではない。
⇒30日(火)夜・金沢の天気 あめ