3月25日の能登半島地震で「震災とメディア」をテーマに被災者アンケートなどの調査を行った。総じて、メディアの記者やカメラマンを見つめる被災者の目線は厳しいものがあることは前述した(6月24日付「震災とメディア・その3」)。今回の「震災とメディア・その4」では私自身の体験を紹介したい。
震災とメディア・その4
震災の翌日(26日)に輪島市門前町の被災地に入った。能登有料道路は一部を除いて通行止めとなった。「下路(したみち)」と呼ぶ県道や市道など車で走って3時間50分かかった。金沢大学から目的地は本来1時間50分ほどの距離だ。被災地をひと回りして、夕方になり、コンビニの看板が見えたので夕食を買いに入った。ところが、弁当の棚、惣菜の棚は売り切れ。ポテトチップスなどスナック類の菓子もない。店員に聞いた。「おそらくテレビ局の方だと思うのですが、まとめて買っていかれましてね」との返事だった。
震災の当日からテレビ系列が続々と入ってきた。記者とカメラマンだけではない。中継スタッフや撮影した映像を伝送するスタッフ。さらに、新聞社、雑誌社なども入り込み、おそらく何百人という数だったろう。このコンビニは門前地区で唯一のコンビニだ。震災当日は商品が落下したため、片付けのため閉店したが、翌日は再開した。メディアの記者たちも「人の子」、腹が減る。生存権を否定するつもりはない。ただ、「買い占めはなかったのか」と問いたいのである。実は、新潟県中越地震(04年10月)でも同じような現象が起き、住民のひんしゅくを買っているのだ。
28日に被災者宅の救援ボランティアに入った。学生たちと倒れた家具などの後片付けを手伝った=写真=。割れたガラス片などが散乱していたので、家人の了解を得て、靴のまま上がって作業をしていた。すると、何人かのカメラマンが続いて入ってきて、作業の様子を撮影した。われわれと同じように靴を脱がず取材をしていった。が、「共同通信」の腕章をしたカメラマンが靴を脱いで上がってきたので、「危ないですよ」と声をかけた。すると、「大丈夫、気をつけますから」と脱ごうとしなかった。そして帰り際に、「ボランティアお疲れさまです」と声をかけて、去っていった。それまでのカメラマンとは物腰が異なるので印象に残った。
後日、共同通信金沢支局のN支局長とある会合で話をする機会があり、この話をすると、さっそく調べてくれて、Iカメラマンと分かった。Iカメラマンに興味がわき、教えてもらった先に後日電話をした。突然の電話の事情を話すと、I氏もわれわれのことを覚えていてくれていた。「あす(6月27日)からアメリカ・大リーグに取材に行く」という。被災地でのボランティア経験があるのかと尋ねると、「ない」といい、ただ、これまで阪神淡路大震災、新潟県中越地震、スリランカの大洪水など災害現場で取材した経験があり、「被災者の気持ちに立った取材を心がけている」という。「私はふてぶてしくないれないタイプかもしれない」と淡々と。
プロは場数を踏んで「ふてぶてしくなる」のではなく、経験を積んで「謙虚になる」のだ。受話器を置いた後で、そんなことを思った。
※写真:金沢大学の学生ボランティアによる被災住宅の後片付け=輪島市門前町道下・3月28日
⇒30日(土)午後・金沢の天気 くもり