自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

★「日朝首脳会談」演出のシナリオ

2018年04月29日 | ⇒メディア時評
    27日の南北首脳会談について、安倍総理が韓国の文在寅大統領と電話会談し、会談の中で、金正恩朝鮮労働党委員長が、日本との対話の用意があると表明した、とメディア各社が報じている。また、文氏は正恩氏に対し日本人拉致問題を取り上げ、安倍総理の意向を伝えたとも。

    金委員長が安倍総理と首脳会談を行うとなると、また、演出されたシナリオが透けて見えてくる。以下は想像だ。金氏は日朝首脳会談の前に、ある人物を日本に送り込んで、日本のメディアの論調を自らに引き込む。そのカードは寺越武志氏(68歳)ではないだろうか。年老いた母・友枝さん(86歳)に会いに日本に来るという涙を誘うシナリオだ。

   1963年5月、能登半島沖へ漁に出たまま行方不明になり、87年1月に北朝鮮で生存が判明した寺越武志氏。2002年10月、39年ぶりに一時帰国し、故郷の石川の地を踏んだ。その時は朝鮮職業総同盟の訪日団の一員として訪れた。本人はこれまで一貫して「自分は拉致されたのではない。遭難し、北朝鮮の漁船に助けられた」と拉致疑惑を否定してきた。「金英浩」という現地名を持ち、妻と子供3人をもうけているので、拉致疑惑を否定せざるを得なかったのかもしれない。

    演出されたシナリオはたとえばこうだ。北朝鮮側が寺越武志氏の拉致を認め、公式に謝罪する。その他の拉致被害者については調査中だとして、まず、寺越氏を日本に帰国させるのだ。母の友枝さんはこれまで65回も息子に会いに北朝鮮を訪問している。武志氏は「もう母親に辛い思いをさせたくない」とインタビューに応じる。そうすると日本の世論は沸騰する。拉致を認め、帰国させれば、その時点で金氏の一本勝ちだ。このムードで今度は日朝首脳会談に臨む。過去の歴史清算を基盤とした日朝国交正常化を切り出し、賠償金や経済援助の引き出しを狙う。ざっとそんなシナリオではないだろうか。

    もう一つの思惑もあるだろう。北朝鮮の一連の「平和外交」の狙いは、自分たちは世界に「危険な存在」ではないとアピールしながら国連の経済制裁を緩和させることだろう。アメリカのトランプ大統領との米朝首脳会談がそのヤマ場だが、その前にさらなる一手を打つとすれば、上記の「拉致カード」だ。なぜなら、トランプ大統領は安倍総理の意向を受けて、拉致問題を切り出すことは目に見えている。その前に、「トランプさん、拉致問題は解決済みですよ」と機先を制するのだ。

⇒29日(日)夜・金沢の天気    はれ
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☆「南北首脳会談」演技は目立ったが

2018年04月28日 | ⇒メディア時評
    やはり「演技がうまい」と印象だ。きのう27日、板門店で開催された「南北首脳会談」をテレビで視聴して率直に思った。韓国の文在寅大統領と北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長が抱擁する場面など。そして、南北軍事境界線の縁石越しに文氏と握手し、金氏が韓国側に一歩踏み出したものの、「私はいつ(北側に)越えられるのか」との文氏の言葉に「ではいま、越えましょうか」と文氏の手を取って2人で北朝鮮側に入った。生中継を意識していると言えばそうのなのだが、サプライズや感動を地で行く演出だった。まだある。金氏の夫人が夕食会に出席し、ファーストレディーを同伴することをあえて演出したカタチだ。テレビの解説では夫人の同伴は知らさせていなかったというが、これも演出か。

   会談の最大の焦点は「非核化」だ。韓国メディアはどう評価しているのか。現地ではさぞ「万歳」と会談を称える論調だろう思いながら、チェックしてみると意外と冷静だ。本日(28日)付「朝鮮日報」webサイトは社説で次のように述べている。以下抜粋。

   「…北朝鮮の核廃棄については本当に深い議論が交わされたのか疑問に感じるほど、合意文書にはわずかな内容しかなかった。本来この会談が開かれた理由はただ1つ、北核廃棄がその目的だったはずだ。誰もがそのように期待した。もしこの問題で進展がなければ、他に何を合意しても何の意味もないからだ。ところが実際の合意文をみると、『非核化』という言葉は仕方なく入れたか、あるいは単なる装飾のように最後の項目にわずか3つの文章しかなく、その量は全体の10分の1にもならなかった。本当に必要なことはよくみえてこないが、それ以外のことばかり派手に書かれた合意文書だといっても過言ではない。…」

    さらに「2005年の9・19共同声明に比べて後退している」とも。9・19共同声明では「北朝鮮は全ての核兵器と現存する核計画の放棄を公約した」と明記されていた。さらに「検証可能な韓半島の非核化」や「検証」についても明記されていた。しかし、実態は、それからわずか1年後、北朝鮮が最初の核実験を強行し、「韓半島に核という暗雲をもたらしたのは周知の事実だ」と懐疑的なのだ。

    となると、はやり注目されるのは6月上旬までに開催されると予告されるアメリカと北朝鮮の「米朝首脳会談」だ。この会談でトランプ大統領が、いわゆる「リビア方式」のようなきっちりとした核廃棄の道筋(ロードマップ)が具体化するかどうかだろう。1)国際原子力機関(IAEA)による査察、2)核兵器・ミサイル装備などの解体、3)申告以外の疑わしい施設の査察、だ。 

    「演技はもういい」。まず、核廃棄のロードマップの合意、そして次に日本人拉致被害者の即時一括帰国だ。日本海側の海岸に今でも次々漂着している北朝鮮の転覆漁船のニュースに接していると、再度言いたくなる。「演技はもういらない」

⇒28日(土)午後・金沢の天気     はれ
  
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★「ペンタゴン・ペーパーズ」と報道の自由

2018年04月27日 | ⇒トピック往来
    輪転工場での鉛のにおいが立ち込めるような、見覚えのある懐かしいシーンが随所に出てきて印象に残る映画だった。きょう27日鑑賞した『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』(スティーブン・スピルバーグ監督)はエンターテイメントではなく、社会派、そして実録映画なので話の流れが硬い、しかし少し涙がうるんだ。

   映画は1971年の「ワシントン・ポスト」紙の編集現場。今と違って当時はローカル紙だった。映画では、冒頭に述べたように鉛を使った活版印刷の輪転工場の様子や、編集局で作成した原稿や写真を筒に入れて制作現場に送るエアシューターが出てくる。私は1978年入社の元新聞記者なので、その当時の新聞社の現場が映画でリアルに再現されていて、つい身を乗り出してしまった。このワシントン・ポストが社運をかけた取り組んだのが、「アメリカ合衆国のベトナムにおける政策決定の歴史 1945-1967年 」という調査報告書(最高機密文書)を記事として掲載するか、どうかの実録のドラマだった。最高機密文書はペンタゴン・ペーパーズとも呼ばれ、国防長官ロバート・マクナマラが指示してつくらせた歴代大統領トルーマン、アイゼンハワー、ケネディ、ジョンソンのベトナム戦争に関する所感などとまとめた調査報告書だが、歴代の大統領はアメリカの軍事行動について国民に虚偽の報告したとする内容が含まれていた。

    「ニューヨーク・タイムズ」紙が6月13日付でスク-プ記事を出し、それを追いかけるようにワシントン・ポストも最高機密文書を入手する。ただ、タイミングが悪かった。社主で発行人の女性経営者キャサリン・グラハム(メリル・ストリープ)が株式公開に動き出している最中だった。ニューヨーク・タイムズの記事は、6月15日にはニクソン政権によって国家機密文書の情報漏洩であり、国会の安全保障を脅かすとして連邦裁判所に記事の差し止め請求が出され、実際に法的な措置が取られた。

    後追いでペンタゴン・パーパーを入手したワシントン・ポストは6月18日付で記事にするか、しないかと決断に迫られた。ニューヨーク・タイムズと同様に記事が差し止めになれば株式公開、どころか経営が危うくなる。同社の顧問弁護士たちも記事掲載に反対した。そもそも4千ページにも及ぶ最高機密文書を入手からわずか一日で掲載することに、果たして精査された記事と言えるのかといった経営上層部からも懸念が発せられた。編集現場のトップ、ベン・ブラッドリー(トム・ハンクス)は抵抗する。「We have to be the check on their power. If we don't hold them accountable — my god, who will?」(権力を見張らなくてはならない。我々がその任を負わなければ誰がやす?)と。

    最終判断は、社主で発行人のキャサリン・グラハムが下した。「ワシントン・ポストは祖父の新聞だった。そして夫の新聞だった。今は私の新聞」と言い、「私が決める」と掲載を決断する。ニューヨーク・タイムズが差し止め命令を受けた後にペンタゴ・ペーパーズを報道した最初の新聞となった。連邦裁判所はワシントン・ポストに対して政権側の訴えを却下した。さらに、同紙が後追いしたことで、6月30日、最高裁判所はニューヨーク・タイムズの差し止め命令を無効と判断した。ペンタゴ・ペーパーズを公表したことは公益のためにであり、政府に対するメディアの監視は報道の自由にもとづく責務であるとの判決理由だった。

    鑑賞を終えて、ふと思った。ワシントン・ポストの社主で発行人が女性ではなく、男性だったらどう判断しただろうか、と。おそらく「7:3」で掲載却下となっていたのではないか。男性はどうしても経営リスクの回避を優先するのではないか。では、なぜキャサリン・グラハムは掲載を決断したのか。おそらく、女性として、母親として、アメリカの若者たちをこれ以上、戦況が悪化するベトナムに送り込めないとの本能的な思いと、ジャーナリズムの社会的な使命への思いが合致したのかも知れない。

    映画のシーンでも、キャサリン・グラハムが孫たちに寄り添う姿がある。スティーブン・スピルバーグ監督の映画制作の意図はひょっとしてここにあるのか、とも思った。キャサリン・グラハムの判断が、その後にワシントン・ポストを一流紙の座へと押し上げた。

⇒27日(金)夜・金沢の天気 はれ
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☆尖った仕事、ニッチトップ企業への眼差し

2018年04月24日 | ⇒キャンパス見聞
   金沢大学のキャンパスで学生たちと話していると、学生の風潮が少し変わってきたのではないかと感じることがある。それは「将来は尖った仕事をしたい」とか「公務員や会社員はそのうちAIやロボットに取って替わるので、アート感覚の仕事がしたい」といった主旨の会話で盛り上がること増えた。インターンシップなどでも、独自の技術でグローバル展開する、いわゆる「ニッチトップ企業」への参加希望が目立っている。それまでは、就職難という時代もあり「親を安心させたいので」と上場企業や公務員志向が多かった。過去形ではなく、その志向の学生たちは今でも多いのは事実だが。

   今は売り手市場の時代なので、ある意味で「学生のわがまま」と言ってしまえば、そうなのかもしれないが、学生の志向は確実に「ナンバーワン」から「オンリーワン」へとシフトしているのではないかと直感している。先日も生態系を学ぶ学生と話をしていると具体的な企業名が話題となった。大量に廃棄される残さを乾燥・炭化処理するバイオマス炭化プラントを製造する「明和工業」という金沢市の企業だった。

   学生はその企業のことをよく調べていて、地球環境の改善に貢献することをCSR(企業の社会的責任)ではなく、本業として地球環境の課題解決に取り組む企業の姿にあこがれるというのだ。この企業はもともとは鉄工所からスタートだったが、環境改善に特化した機械装置を開発するため、大学と連携するなど「研究開発型のニッチトップ企業」でもある。学生は「この企業で学んで、自分も起業したい」とさらに自らの将来を見据えていた。

   学生たちは初等教育のころから「点数主義」という計りにかけられ、ひたすらナンバーワンを目指してきた。点数主義を悪く言うつもりはない。ある意味で公正で透明な計りだ。ただ、この計りだと、人間としての多様性を育てることはできないのだ。一方で、「ナンバーワン省庁」とも言える財務省事務方トップを始めとして、いわゆるエリートとして評価を勝ち得てきた人たちの不祥事がさまざま場面で散見される。特にセクハラ、パワハラ、盗撮など。そして、業界ナンバーワン、あるいはトップの企業で相次ぐ組織ぐるみの品質データを書き換え、改ざん問題など。明らかに人として、企業としての在り様が歪んでいる。

   「尖った仕事」「ニッチトップ企業」にあこがれる今の若者たちの風潮はひょっとして、この点数主義に反旗をひるがえしているのではないかと思う。そのきっかけはAI、ロボットの活用時代という「Society 5.0」での価値感の大きな変化なのかもしれない。簡単に言えば、「点数主義の人間のする仕事なんて、そのうちAIやロボットが勝る時代が来る。AIやロボットでは絶対できない、新しい時代の仕事をみつけたい」と。自らの存在価値を確認する時代と言えるかもしれない。

⇒24日(火)夜・金沢の天気    あめ
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★取材「する側」と「される側」の論理

2018年04月20日 | ⇒メディア時評
   テレビ朝日の女性記者が上司に財務事務次官のセクハラ発言を番組で取り上げるよう訴えたが却下されたことが一方で問題と指摘されている。朝日新聞(20日付)は社会面で専修大学の山田健太教授(言論法)のコメントとして「社会に根強く残るセクハラを許容する風潮を変える機会を逸し、残念だ。これは報道機関に共通する課題。これを機に各社とも。社内体制と報道姿勢自体を見直すことを願う」と記載している。コメントにある「報道機関に共通する課題」とは何か。これがむしろ大問題なのだ。

   昨年2017年6月、スイス・ジュネーブでの国連人権理事会で、国連の「表現の自由の促進」に関する特別報告者として、カリフォルニア大学教授のデービッド・ケイ氏が指摘した問題の一つが「記者クラブ」だった。ケイ氏は「調査報道を萎縮させる」と指摘した。そもそも記者クラブとは何か。「官公署などで取材する記者間の親睦をはかり、かつ、共同会見などに便利なように組織した団体。また、そのための詰所」(広辞苑)とある。公的機関が報道機関向けに行う発表する場合は通常、記者クラブが主催する記者会見で行い、幹事社が加盟社に記者会見がある旨を連絡する。このシステムについて日本新聞協会は「情報開示に消極的な公的機関に対して、記者クラブという形で結集して公開を迫ってきた」「公的機関に真の情報公開を求めていく社会的責務」(同協会2002年見解)など評価している。

    記者クラブ所属の記者は「番記者」と呼ばれ、例えば内閣府に食い込み取材を通じて、親しくなることでネタ(記事)を取る。親しくなりすぎて「シガラミ」が発生することもある。それでもベテランの記者ほど「虎穴に入らずば虎児を得ず」と言う。権力の内部を知るには、権力の内部の人間と意思疎通できる関係性をつくらならなければならない。という意味だ。そこには取材する側とされる側のプロフェッショナルな仕事の論理が成り立っているのだ。

   一方で、ケイ氏が指摘したように、こうした記者クラブの環境のもとでは政府や官公署のストーリーをそのまま発信しがちになり、権力側の圧力を跳ね返せないのではないか、ましてや権力に対し調査報道をする能力にも影響が出る、と。ケイ氏は、記者クラブは「虎穴の入り口」だと日本のメディアに警告を発しているのだと解釈している。

    話は冒頭に戻る。テレビ朝日の女性記者は事務次官のセクハラ発言を告発するため上司に提案したが却下された。おそらく、上司はこれまでテレ朝として築き上げてきた財務省との情報のパイプを壊したくなかったのだ。あるいは財務省記者クラブに加盟している他社に配慮したのではなか、と推察する。いずれにしても「仕事の論理」に「#MeToo」セクハラ告発は相応しくないと判断したのだろう。「君の仕事はセクハラ告発ではない。事務次官からスクープを取ることだよ」と。この状況は何もテレ朝に限ったことではなく「報道機関に共通する課題」だと考察している。

    今後、名誉棄損の裁判が始まるだろう。次官は「セクハラ発言」を否定している。事実認定をすることになる。公表された音声データの本人確認と内容確認。取材の在り様、たとえば飲食費を誰が払ったのか。次官が女性に電話して飲食店に誘ったと報道されているが、取材目的ならば経費は記者が、懇親会ならば次官と記者の折半、次官の接待ならば次官が支払っているだろう。会話のやり取りの意味合いもこうした状況によって違ってくるのではないか。裁判ではセクハラの認定をめぐり厳密な審理が行われる。

⇒20日(金)朝・金沢の天気     はれ
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☆続々々・いま伝えるべきこと、誰が伝えるのか

2018年04月19日 | ⇒メディア時評
   前回(18日)のブログを更新した後に、テレビ朝日の報道局長が記者会見を開きし、セクハラ発言を受けたとする女性記者は同社の社員であると発表した。けさの新聞各紙は報じている。女性記者は会社の上司に相談したが、消極的だったという。そこで、女性記者は週刊誌に音声データを提供したと経過説明をしたというのが経緯のようだ。財務事務次官が報道陣に向かって辞任を表明したのが18日午後7時ごろ、テレビ朝日側が記者会見を開いたのは19日午前0時すぎ。この5時間のタイムラグの意味は何だろう。

    一連の報道を注視しているが気になる点がある。音声データを公開している新潮社のニュースサイト「デイリー新潮」でその音声を聞くと事務次官が、女性記者の「森友問題」の取材し対し「胸触っていい」「予算が通ったら浮気するか」「抱きしめていい」などと話す言葉が聞くことができる。気になるのはバックのノイズだ。飲食店での会話だと想像されるが、鉄板の上でステーキを焼くようなカチャカチャという音や、カラオケのような音声も聞こえる。ここから推測すると、複数の店での会話を録音であることが分かる。つまり、公開されている音声は場所が異なるいくつかの会話を切り取って編集されているのだ。テレビ局の記者らしく「セクハラ発言の特集」をつくっていた。

    上記のことを積極的に評価するとすれば、女性記者は事務次官をセクハラ発言に耐えかねて、番組で訴えようと準備していた。そのため、これまでの発言の数々を別途編集していた。そう考えると、女性記者は報道番組で自ら出演して、記者として「#MeToo」、セクハラ告発を事実として訴えよう、と。その女性記者の志(こころざし)に冷や水を浴びせたのは、ほかならぬ職場の上司だった。報じられているテレビ朝日側は会見内容で「放送すると本人が特定され、二次被害がある。報道は難しい」と却下したと述べているが、もし本人が自ら番組に出演して「#MeToo」を訴えたいと提案していたにもかかわらず、却下したとするならば、むしろ問われるべきは報道機関としての対応だろう。

    その報道番組への企画が通らず、女性記者は取材し編集した素材(音声データ)を週刊誌側に提供した。おそらく無念の思いだったろうことは想像に難くない。記者が取材活動で得た素材をまったくの第三者に渡すということはそれ相当の覚悟があってのこと、つまり懲戒免職も覚悟の上ということだ。今回のセクハラ発言の一件、いろいろと考えさせられる。

⇒19日(木)朝・金沢の天気    はれ
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★続々・いま伝えるべきこと、誰が伝えるのか

2018年04月18日 | ⇒メディア時評

        では、なぜ、セクハラ発言を受けた女性記者が所属するメディア企業は動かないのか。取材だから、当然勤務時間中でのことだ。そして、会社組織として、財務省事務次官に対してセクハラ発言への抗議を申し込まなかったのだろうか。理解に苦しむ。

   きょう18日のニュースで、麻生財務大臣が、女性記者にセクハラ発言をしていたと週刊誌に報じられた事務次官から辞任の申し出があったと述べたと報じられている。辞任の理由は、このような状況下で次官の職責を果たすことが困難と考えたようだ。次官はきょう財務省内で記者団の取材に応じ、セクハラ発言の事実を否定し、名誉棄損で裁判に訴え争うという。

   裁判となると、当然、セクハラ発言を受けた女性記者に対して、法廷での証言が求められるだろう。顔出しをする必要はないが、記者としてそのセクハラ発言にどう対応したのか聴きたい。もし、出廷しなかった場合、裁判は成立するのだろうか。週刊誌報道は被害者と加害者という構図で構成がされているので、被害者の証言がない場合は事実認定は難しくなるだろう。その場合、週刊誌側に不利になるのではないだろうか。

   女性記者が出廷して証言した場合はどうか。「セクハラ」と感じたと女性記者が証言したとして、なぜ自身の自らのメディアで報じなかったのか問われるだろう。週刊誌に音声データを渡した理由と経緯も問いただされるでのはないだろうか。

   フリージャーナリストの女性が元TBSの記者の男性を、望まない性行為で精神的苦痛を受けたとして民事訴訟で訴えている。報道によると、女性は2015年4月、就職の相談をしようと都内で男性と会食し、その後意識を失ってホテルで望まない性行為をされたと訴えている。この問題が浮き上がった当初はハリウッドで起きた「#MeToo」、セクハラ告発が日本でもムーブメントとして起きたとの新鮮な印象だった。顔をメディアに出しての告発だ。

   警視庁はこの件を男性による準強姦罪の容疑で捜査したが、東京地検は2017年4月、嫌疑不十分で不起訴処分。女性は5月に司法記者クラブで会見し、検察審査会に不服を申し立てたことを公表したが、検察審査会は9月に「不起訴相当」との議決を出した。女性はめげずに民事訴訟で訴えた。2017年10月、日本外国特派員協会での記者会見も行っている。女性は氏名も明かしている。評価はいろいろあるが、戦うジャーナリストの姿がそこにある。   

⇒18日(水)夜・金沢の天気   はれ
  

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☆続・いま伝えるべきこと、誰が伝えるのか

2018年04月16日 | ⇒メディア時評
  週刊誌で報道された財務省の福田淳一事務次官による女性記者へのセクハラ発言について、腑に落ちないことがいくつかある。一つには、前回コラムで述べたように、女性記者が福田氏への取材過程でこれはセクハラ発言と受け止めたのであれば、なぜ記者本人が告発しないのだろうか。また、その録音データを週刊誌サイドに渡し、週刊誌での告発としたのだろうか。

   女性記者は上司に報告しなかったのだろうか。その報告を受けて、会社として対応できるのではないか。。たとえば、部長クラスが財務省に出向き、事務次官に「今後言動を慎んでほしい」と申し入れすべきではないか。

  16日財務省が発表した福田氏からの聞き取りの調査が、時事通信Webサイトで掲載されていたので引用する。

【(1)週刊誌報道・音声データにある女性記者とのやりとりの真偽】
  週刊誌報道では、真面目に質問をする「財務省担当の女性記者」に対して私(福田事務次官)が悪ふざけの回答をするやりとりが詳細に記載されているが、私(福田事務次官)は女性記者との間でこのようなやりとりをしたことはない。音声データによればかなりにぎやかな店のようであるが、そのような店で女性記者と会食をした覚えもない。音声データからは、発言の相手がどのような人であるか、本当に女性記者なのかも全く分からない。また、冒頭からの会話の流れがどうだったか、相手の反応がどうだったのかも全く分からない。

【(2)週刊誌報道・音声データにある女性記者の心当たり】
  業務時間終了後、男性・女性を問わず記者と会食に行くことはあるが、そもそも私(福田事務次官)は、女性記者との間で、週刊誌報道で詳細に記載されているようなやりとり(また、音声データおよび女性記者の発言として画面に表示されたテロップで構成されるやりとり)をしたことはなく、心当たりを問われても答えようがない。

  上記の福田氏のコメントを読むと、音声データの内容を完全に否定しているようにも感じる。聴取したのは、麻生財務大臣の指示を受けた矢野大臣官房長。福田氏は今回の週刊誌報道が事実と異なり、名誉毀損で提訴に向けて準備を進めているようだ。

   そして、財務省が異例の対応を記者クラブに対して行っている。以下引用。

本日(4月16日)、財務省の記者クラブ(財政研究会)の加盟各社に対して、各社内の女性記者に以下を周知いただくよう、要請した。【各社内の女性記者への周知を要請した内容】 一 福田事務次官との間で週刊誌報道に示されたようなやりとりをした女性記者の方がいらっしゃれば、調査への協力をお願いしたいこと。 一 協力いただける方の不利益が生じないよう、責任を持って対応させていただくこと。

   要するに、このようなセクハラ被害を受けた女性記者は名乗り出てほしいとメディア各社に要請したのだ。メディア各社から果たして返答はあるのか。なければ、音声データの真贋が問われる。財務省側は先手を打った。

⇒16日(月)夜・金沢の天気    くもり 




   
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★いま伝えるべきこと、誰が伝えるのか

2018年04月14日 | ⇒メディア時評

          日本のマスメディアに指摘されている問題点の一つとして、自らに降りかかった問題をその場で質さないことだと思う。その典型的な事例が、最近ニュースで報じられている、財務省の福田淳一事務次官が女性記者にセクハラ発言を繰り返したと週刊誌が報じ、野党が本人を更迭するよう求めている一件だ。

   福田氏が飲食店で30代の女性記者に「胸触っていい」「予算が通ったら浮気するか」「抱きしめていい」などと話したとする音声データを新潮社がニュースサイト「デイリー新潮」で公開した。女性記者は「森友問題」の件を取材したのだが、セクハラ発言でうまくかわされている。「渦中の省」が問題となっている矢先、そのトップの事務次官として脇が甘いと感じるのは当然だが、一方で、セクハラ発言を浴びせられ、まさに「#MeToo」を地で行く状態なのに当事者でもある記者はなぜ記事で暴かないのだろうか。福田氏は記者の身内でもなんでもなく、かばう必要もまったくない。記者はあくまでも取材者としての立場で、自ら体験したことをドキュメントとして記事にすればよいのだ。ここが不可解なのだ。

   ケースは異なるが同様のことを感じた一件がある。2017年7月5日に富山商工会議所で記者会見した、産業用ロボット製造メーカー「不二越」の会長が本社機能を富山市から東京に移すことを発表した。この会見の発言の中で、「(富山生まれは)極力採用しません」「閉鎖的な考えが強いです」と発言した。ところが、そのことが問題発言として記事になったのは1週間たった12日付の地元紙の紙面だった。

   記者会見の場にいた記者たちはなぜ、その場で地域に対する差別的な発言を質し、記事にしなかったのだろうか。取材の録音テープは当然残しているはずだ。なぜ1週間も後に記事になるのか、そのタイムラグは一体どういう経過があったのだろうか。これは想像だが、経済担当の記者はあくまでも経済面を埋める記事を書くことが優先なので、不二越本社の東京移転がメイン。差別的な発言に関しては、後にそのことを経済部の記者から聞いた社会部の記者が「その方がニュースだろう」との思いで記事にしたのではないだろうか。
   
   メディアにおけるジャーナリズムと何か。大学のメディア論の講義でもよく問う。ジャーナリズムは「理念」をさしている。民主的な手続きによって「権力」が成立しても、権力による不正は生じる。不正をただす有権者らの「知る権利」を守る。いま伝えなければならないことを、いま伝える。いま言わなければならないことを、いま言う。それがジャーナリズムだと学生たちに教えている。

   その事実を知った記者自身がジャーナリストとしての自らの感性でセクハラ発言や地域差別的な発言を質して記事にするのが本来の在り様ではないだろうか。

⇒14日(土)夜・金沢の天気    はれ

   

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☆「点数主義エリート」の限界か

2018年04月10日 | ⇒ドキュメント回廊
    昨日(9日)自家用車の運転中に参院決算委員会の模様をNHKラジオの中継で聞いていた。森友学園への国有地売却問題をめぐり、地中から出たごみの撤去について財務省側が昨年2月に森友学園側へ口裏合わせを求めていたことを理財局長が認め陳謝すると、質問した自民党の議員が「バカか、本当に」と大声を上げた。国会で「バカ」という言葉を実際に聞いたのはこれが初めてではないだろうか。昭和28年(1953年)の衆議院予算委員会で、当時の吉田総理が社会党の議員との質疑応答中に「バカヤロー」と発言したことがきっかけで解散にいたった、いわゆる「バカヤロー解散」は日本の政治史に残る。以来「バカ」は国会でタブーになっていたと思っていたのだが、どっこい生きていた。

   議員の「バカ」発言に別の感情を抱いた。「財務官僚にとってはショックな言葉だろう」と。財務省のようなエリート官僚たちは、点数主義の入試を突破して東京大学などに入学、さらに国家公務員試験の合格を目指し黙々と励んできた。断わっておくが点数主義の入試は透明性と公平性がある選抜システムともいえる。それを勝ち抜いてきただけにプライドは人一倍高いだろう。財務省の隠ぺい体質に浴びせられた「バカ」発言で財務官僚たちのプライドはひどく傷ついたのではないか。

    以下は考察だ。点数主義を勝ち抜いてきた人たちの同質性というのは、官僚機構や大企業にある「日本型組織の特性」ではないだろうか。こうした組織中では「空気を読む」「空気を察知する」「忖度する」、そして価値観を統一して突き進む。プロセスでは、異質性や多様性といった価値観が排除される傾向にある。森友学園問題の忖度などは詰まるところは、この日本型組織の特性によるものではないだろうか。

    点数主義によるエリートの選抜は限界に来ているのではないだろうか。アメリカのプリンストン大学の学生らが石川県に滞在して日本語と日本の文化について学ぶ「PII(Princeton in Ishikawa)」プログラムの講義を行ったことがある(2013年6月)。学生はプリンストンやハーバードなど16大学の50人、それに日本人学生65人も加わり、彼らを前に世界農業遺産(GIAHS)の講義(90分)を行った。テーマは「Noto’s Satoyama Satoumi ~Omnibus consideration ~」。

     プリンストンの女子学生から以下の質問があった。輪島の海女漁を持続可能な漁業を説明したことに対して、彼女は「なぜ女性が海に潜り漁をするのか、女性虐待ではないか」と。「いや、海女たちは権利として漁を行っている」と追加説明すると納得した。ハーバードの男子学生は「日本も交渉に参加するTPP(Trans-Pacific Partnership、環太平洋戦略的経済連携協定)では、能登の農林漁業にどのような影響が考えられるのか」と。この質問には以下のように返答した。GIAHSサイトの農業のほとんどは小規模農業、家族経営であり、その意味では生産効率の高いアメリカやオーストラリアの大規模農業とは農業形態がまったく異なる。しかし、GIAHSでは価格競争力ではなく、付加価値の高いブランド農産品を目指していて、たとえば能登の稲作では「能登米」「能登棚田米」としてブランド化を図っている。TPPのような農産品のグローバル取引の到来がむしろGIAHSの評価を押し上げていくのではないだろうか、と。

     日本人学生から質問がなかったことは残念だったが、プリンストンやハーバードの学生たちの数々の質問にはこちらも楽しませてもらった。「面白い質問をする学生たちをそろえている」、そんな印象を持った。実は、プリンストンやハーバードは点数もさることながら、面接を重視する選抜制度を採用している。入試ではエッセイ(作文)、推薦状2通、SAT®(アメリカの全国共通テスト)、そして面接が選抜の要件。とても手の込んだ入試制度だ。少なくとも、点数主義のエリートを育てる土壌ではない。その理念は多様な社会のリーダーを育てるということだ。「新たな知識の扉を開き、その知見を学生と共有し、学生の知性・人間性いずれにおいても最大限の可能性を引き出し、やがて学生をして社会に貢献する」(The Mission of Harvard Collegeより訳)。社会へ貢献は多様だ。だから、多様な人材をそろえる、大学の使命として理にかなっている。

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