昨夜(23日)金沢市の石川県立音楽堂コンサートホールで開催された、荘厳ミサ曲(ミサ・ソレムニス)の演奏を聴きにいった。地域の県音楽文化協会が主催する年末公演で50周年記念だという。歴史を刻んでいる。ある意味で季節の恒例のイベントとして定着しているのか、1階と2階の観客席はほぼ埋まっていた。ステージもにぎやかだった。ソリスト(ソプラノ、アルト、テナー、バス)と混声四部合唱の歌声、それに石川フィルハーモニー交響楽団と韓国の音楽大学の編成による演奏者が旋律を奏でる。演奏時間は80分。演奏はベート-ベンらしい激しい高揚感、そして建築物のように緻密で清明感にあふれる曲構成、決して「長い」とは感じなかった。むしろ、演奏を聴きながら2011年を振り返るよいチャンスにもなった。「2011ミサ・ソレニムス」と題して、この1年の回顧録を。
人は自然災害とどう向き合えばよいか…畠山重篤さんの語り
荘厳ミサ曲は、葬送曲のレクイエム(鎮魂ミサ曲)とは異なる宗教音楽のジャンルだが、厳かな旋律を聴くと東日本大震災での犠牲者の方々を想う。「2011年3月11日(金)午後2時46分発生、マグニチュード 9.0、最大震度7、津波の波高最大37.38m(岩手県田老町)、死者1万5840人(行方不明3546人)12月2日現在」
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震災2ヵ月後の5月11日に東北に入り、取材した。その折、宮城県気仙沼市に在住するカキ養殖業、畠山重篤さん(NPO法人森は海の恋人代表)を訪ね、石川県での講演のお願いをした。それが9月2日に輪島市で開催した「地域再生人材大学サミットin能登」(能登キャンパス構想推進協議会主催)の基調講演というカタチで実った。講演内容は今でも心に深くとどまっている。人は自然災害とどのように向き合っていけばよいのか。畠山さんの話を掘り起こしてみる。以下要約。
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3月11日、仕事をしていた最中に地震があった。この数年地震が多く、「地震があったら津波の用心」という碑が道路などあるが、「またか」という気持ちもあった。地震から津波まで30分ほど間があったので、自宅に大事な物を取りに戻った方もいた。しかし、30分後に巨大津波が押し寄せた。三陸は、吉村昭(作家)の『三陸海岸大津波』にもあるように、津波の歴史を持つ地域だ。私も50年前、高校2年生の時にチリ地震津波を経験していて、今回はチリ地震津波くらいのものが来るのかなという感覚はあった。気仙沼の南にある南三陸町はチリ地震津波で死者が50人ほど出たため、防潮堤を造るなど津波対策を施したが、それはあくまでチリ地震津波の水位を基準にしたものだった。ところが今回の津波は、チリ地震津波の約10倍にもなるようなものだった。
私の家は海抜20㍍近くだが、自宅すぐ近くまで津波は押し寄せた。日本海側の方々は津波のイメージがなかなかわかないと思う。台風が来てシケになると大波が打ち寄せるが、波の連動が伝わってきて、波頭が打ち当たる。津波はそうではなく、海底から水面までが全部動く。昨晩、海辺の温泉のホテルに泊まらせていただいた。窓を開けるとオーシャンビューで、正直これは危ないと思った。4階以下だったら、山手の民宿に移動しようかと考えたが、幸い8階と聞き安心した。温泉には浸かったが、安眠はできなかった。あの津波の恐怖がまだ体に染み込んでいる。
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過去に10㍍の津波を経験している地域は日本各地にある。日本海側は、太平洋側よりは津波の規模は小さいと思うが、覚悟はしておくべき。皆さんは、いざというときは海岸から離れればよいと思っているかもしれないだが、いくら海岸から離れても、あくまで津波というのは高さなので、絶対に追いつかれてしまう。だから、海辺に暮らしている方は、どうすれば少しでも高い所に逃げられるかを念頭に置いた方がいい。
地域再生を考えるとき、人口が減る、仕事がない、農業・漁業が大変だという諸問題が横たわっている。しかし、それ以前に沿岸域の場合は津波に対してどういう備えをするかが第一義だと考える。三陸はリアス式海岸だが、どんな小さい浦々も一つも逃れようがなく全滅だった。盛岡の岩手医大の先生が言うには、震災の晩、大勢のけが人が出るからと病院に指示をして、けが人を受け入れる準備をした。ところが、けが人は一人も搬入されなかった。津波では、けが人はいない。死ぬか生きるかになる。そういう厳しさがある。地域づくりをする前に、もし大津波警報が発令されたらまずどの高さの所に逃げるか、山へ行くのかビルに行くのかを考える。そこから出発しなければいけないと思う。
津波が起きてしばらくは、誰もが元の所に帰るのは嫌だと言っていた。しかし、2ヵ月くらいすると、徐々に今まで生活した故郷を離れられないという心情になってきた。ただ恐れていたのは、海が壊れたのではないかということだった。震災後2カ月までは海に生き物の姿が全く見えなかった。ヒトデやフナ虫さえ姿を消していた。しかし2ヵ月したころ、孫が「おじいちゃん、何か魚がいる」と言うので見ると、小さい魚が泳いでいた。その日から、日を追ってどんどん魚が増えてきた。京都大学の研究者が来て基礎的な調査をしているが、生物が育つ下地は問題なく、プランクトンも大量に増えている。酸素量も大丈夫で、水中の化学物質なども調べてもらったが、危ないものはないと太鼓判を押してもらった。これでいけるということで、わが家では山へ行ってスギの木を切ってイカダを作り、カキの種を海に下げる仕事を開始した。
塩水だけで生物が育つわけではなく、私たちの気仙沼の場合は、川と森が海とつながる「森は海の恋人」運動を通して自然の健全さを保ってきた。海のがれきなどの片付けが終わればあっという間に海は戻ってくる。これが希望だ思っている。森と川の流域に住んでいる人々の心が壊れていれば、漁師はやめるしかない。しかし、森と川と海が健全なので、大丈夫だなという気持ちが盛り返して、今、再出発が始まっている。
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