魚のアトリエ”うおとりえ”

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 「魚っ食いの365日

魚談義――魚調理技術者を惜しむ

2011年02月19日 | 魚談義
  

 町の魚屋さんが、だんだん少なくなって行くということは、それだけ魚調理技術者がいなくなって
しまうということになります。 魚屋さんは、むかしから魚をさばいてお客さんに渡していました。
その時、食べ方をアドバイスしながら売っていました。今風に言えば、コンサルティングセールスを
してきたのです。

 以前は、今よりも家庭で魚をさばける主婦が多かったとはいえ、イワシ・アジなどの小魚は別として
サバより大きな魚は、店頭でさばいてくれていたように記憶しています。特にお刺身などは、大皿に盛
り合わせてもらっていました。

 町の魚屋さんがなくなってしまうと、いわば、町の調理師がいなくなってしまうことになります。
われわれ家庭の魚調理を支えてくれていた人たちの力を借りられなくなるということは、家庭における
「魚食力」の低下につながります。

 デパ地下の魚屋さんでも、スーパーの魚屋さんでも、頼めばさばいてはくれますが、そこにはあまり
会話がありません。いつも同じ店員さんとは限らず、顔見知りになるということは不可能です。専業の
魚屋さんとはキャリアも違うと思います。

 魚をさばくという技術は、理屈より経験ですから、何百、何千さばいて習得するものです。一朝一夕
に得られない技術なのです。それは、自分がいまさばいていてよく分かります。魚屋さんの廃業ととも
に、この社会から貴重な技術・技能を失ってしまうわけですから、大変惜しむべきことであり、大
いなる損失であります。その損失は、われわれが蒙るわけです。

 肉屋さんで肉を買って、持ち帰って再び魚のように切り分け・さばくようなことはありません。陳列
もそうです。牛が豚が鶏が店頭でぶら下がっていることはありません。ところが魚は、海で泳いでいた
ままの姿で、店頭に並んでいます。肉と大きな違いですね。魚は、現在の住環境、台所事情に合わない
ですね。いきおい魚(鮮魚)は、切り身で売る、切り身で買うということになります。

 そうすると、われわれに身近な沿岸・近海の小魚は敬遠されることになります。わが国は長い海岸線
を持つ国ですから、近くで獲れる魚は新鮮で美味しい魚が多いのです。ところがこうした魚をさばいて
くれる魚屋さんがなくなるということは、われわれは新鮮で美味しい魚を食べられないということにな
ります。そこに「鮮魚難民」が生ずるわけです。

 時代にあった「魚屋」でなければならないと思います。今やその危機にあります。飛躍しますが、
世界の食糧問題は、われわれの足元にある日々の問題として捉える時ではないでしょうか。
町の魚屋さんの現状と、家庭の「魚食力」の低下とが、リンクしていることは間違いありません。

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