絹糸のしらべ

一絃の琴、きもの、文学etc…日本人のDNAが目を覚ます・・・

本日日経の夕刊に

2006年12月09日 21時31分09秒 | Weblog
今日の日経の夕刊に「子育て、この20年間に激変」の記事がでていた。
(地域で少し内容がことなるかもしれないが)

自己実現を目標とする教育を強力に受けてきた女性が母親になり
その教育と相矛盾する、ある種自己犠牲というか奉仕というか
「子育て」に強くストレスを感じ、結果虐待などに繋がっているという。
それで、いろいろ母親救済策を講じるらしい。

子育てと自己実現は相矛盾する。
子育ては最高の奉仕であり、それは何物も見返りを要求しないものだ。
対して、自己実現のほうは?自分の納得というより、自分という存在を
他者に認めてもらうことに一番の価値を置く。
お金であれ名誉であれ。。。

このようなことで、親がどっちを向いているのか、非常に子どもは敏感だ。
生活のために忙しく、目は子どもを向いていても
現実手をかけてやれないのか、あるいはまた、自己実現のために忙しく
子どものことは二の次になってしまっているのか。
そして、ほんとうに自分のことを思ってくれているのか
親を試す時が来る・・・どこまでもどこまでも。
なぜ、子どもってそういう存在なのだろう?

思春期だけとは限らない、ありのままの自分を親にぶつけるのが
もう家庭を持って自分の子どももあるような時期になって
突然「子どもに戻って」親に立ち向かってくる場合もあるのだ。
ほんとうに、親と子の関係は不思議だ。

子育てについて言えば、ある時期、親自身の人生が子どもによって奪われると
いってもいいだろう。
しかし、充分にそのとき奪われなかった場合
子どもが健全に育ちにくい、あるいはそのときはそれで済んでも
のちに奪い返しに来るのだ。。。
ほんとうに子どもを育てるってどういうことなんだろう。
不思議です。

人はどんなときに

2006年12月09日 10時37分39秒 | Weblog
近年、感動する瞬間が激減し、この虚ろな気分を何とかしようと
いろいろ努力はするのだがなかなかうまくいかない。
「どうせ」という自分の一番嫌いなことばが頭をよぎる。。。

人間、どういうところから「楽しさ」を感じるのだろう?
どんなときに「いきいきと」できるのだろう?
「楽しさ」や「いきいきとする」それの根拠はナンなのだ?
(気分が暗いョ

人それぞれで、個別に違うのだろうが
では自分自身、どういうときに「精神の発露」を感じられるのか
考えてみた。
う~~ん、しかし、今の状況下ではそれはできない。
そして、鬱々とした日々は続く。。。
(何を書いているんだか、、、



送別会

2006年12月09日 00時07分33秒 | Weblog
今日は本の修理の後、ずっとスクールサポーターでいっしょにやってきた
友人の送別会だった。
自分自身転勤族で、かずかずの別れを経験してきているが
行くにしろ残るにしろ、やっぱり「じゃあ、元気でね」は辛いのである。

できるだけ寂しさを感じないように感じないように「鈍」を
装うのだが、やっぱりやっぱり寂しい。。。

サポーターの主力選手がこれで2人も転勤になり
これまで事務方をずっとやってくれていた人も卒業で
4月以降はいないのだ。これからどーしょー
(別にわたしが責任を感じなくてもいいのだが・・・)

ボランティア活動は、それを提供する人と受け取る人の間にたって
調整する、いうならばコーディネーターの役割がとても大事であると思う。
受けるほうも与えるほうも気持ちよく続けられるためには
この調整役が必要なのだ。これになってくれる主力選手が
育ってきてほしいと思うのだが、なかなかすぐには育たない。

お母さん方をみていると、こう、むかしむかしの団結した感じというのでは
なくて、つかず離れずの感じで、強力なリーダーの下でより
なんとなく横並びの、ふんわりした感じが好きなようだ。

横並びでも、ふんわりでもいいけど
次なる主力選手が出てくるためには、
(もうあと1年で卒業の)私が前面にいてはダメなのだ。
世代交代していかねば。。。
卒業しても、この地域にいる限り、もうやらないでといわれない限りは
サポーターをやろうと思っているけれども
軸になるのはやはり在校生のお母さんだろう。
自分自身、だんだん影が薄くなってきているのがわかる。
なんかこう気力が衰えて鬱状態に近いことが、今日人と話していて
特に感じられた。