絹糸のしらべ

一絃の琴、きもの、文学etc…日本人のDNAが目を覚ます・・・

私の前にある鍋とお釜と燃える火と

2006年12月22日 19時45分30秒 | 
石垣りん 「私の前にある鍋とお釜と燃える火と」

それはながい間
私たち女のまえに
いつも置かれてあったもの、

自分の力にかなう
ほどよい大きさの鍋や
お米がぷつぷつとふくらんで
光り出すに都合のいい釜や
劫初からうけつがれた火のほてりの前には
母や、祖母や、またその母たちがいつも居た。

その人たちは
どれほどの愛や誠実の分量を
これらの器物にそそぎ入れたことだろう、
ある時はそれが赤いにんじんだったり
くろい昆布だったり
たたきつぶされた魚だったり

台所では
いつも正確に朝昼晩への用意がなされ
用意のまえにはいつも幾たりかの
あたたかい膝や手が並んでいた。

ああその並ぶべきいくたりかの人がなくて
どうして女がいそいそと炊事など
繰り返せたろう?
それはたゆみないいつくしみ
無意識なまでに日常化した奉仕の姿

炊事が奇しくも分けられた
女の役目であったのは
不幸なこととは思われない、
そのために知識や、世間での地位が
たちおくれたとしても
おそくはない
私たちの前にあるものは
鍋とお釜と、燃える火と

それらなつかしい器物の前で
お芋や、肉を料理するように
深い思いをこめて
政治や経済や文学も勉強しよう、

それはおごりや栄達のためでなく
全部が
人間のために供せられるように
全部が愛情の対象あって励むように。



これは、もう随分前の、私が生まれた頃に書かれた詩でしたっけね。
でも、今読んでも全然古くない、むしろ今こそ読まれるべきもので
あるようにも感じます。
男女区別ない社会、欧米型の男女ともフルタイム社会に出て働き、
子どもは社会全体でみる(つまり子どももフルタイムで他人に預けられる)
のが当然の社会が、目の前まで迫ってきています。
そんな風潮の中、家庭の中にある一番大切なところを「女」である
自分たちが支えてきたことをあえて誇り高く思いたい自分がいます。。。

社会派の石垣りんですが、いまの世の中の薄っぺらな『ジェンダーフリー』
に比べてなんと深い人間理解なのだろうかと
朗読の練習のたびに思うのでした。
(石垣りんさんは、たしか独身を貫かれた方だったと記憶しています)


昨日の朗読

2006年12月22日 14時26分36秒 | 
私の前にある鍋とお釜と燃える火と―石垣りん詩集

童話屋

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昨日の朗読研修の記事を午前中書いていて、すご~く長くなったところ
急にパソコンが固まった!?
うんともすんともいわなくなり、結局その記事はボツに。。。
うぇ~~~ん

石垣りんの詩と随筆で気に入ったものを練習してくる宿題が出ていたので
この「私の前にある鍋とお釜と燃える火と」を選んで読んでみた。
長男が生まれた頃、職をなくして(夫の転勤で辞めざるをえなくなり)
しょんぼりしていた私に、年長の友人が教えてくれたものだった。

「社会に出て働くことだけが素晴らしいわけじゃないわよ。
 わたしたちは家庭にあって子育てをしながらも、いろいろなことを
 勉強していくことはできるわ。
 ○○さん、感性が鈍らないようにいつもアンテナを高くしておくのよ!」
そんなふうに言って、叱咤激励してくれたことを昨日のことのように
思い出す。でも、案外それは彼女自身への言葉であったのかもしれない。
そうして今も私は家庭にある、ままなのだった。。。