うちの社中では、開放弦を「D♯」で合わせているけれども
そうでない社中もあるかと思います。
このことは前にも書いたことがあります。
(「D」で合わせておられる先生もみえます。)
習い始めの頃、この音で「三」以下の音を歌うのが
めちゃめちゃしんどい!?(苦痛な)ことでした。
とにかくわたしには低すぎて、もう、唸っているようにしか
聞こえないような状態でした。
ごくごく初期に「須磨」をやるので、この曲は初心者が入門した
途端に弾くには難しいのではないかと思ったりしました。
特に歌いだしの部分が出にくく、「三」からいきなりは出られないので
「わくらば」の「わ」を「二~三」(わ~)というふうに
歌って、やっとこさ歌い出せた記憶があります。
開放弦の音を何にするのか、というのは
たとえば社中全員で合奏するとか、何人かでアンサンブルのように
弾くとか、そういうことがあるので必要なのかもしれませんが
一絃琴の有りようからすれば、弾く人の声にあわせればいいのであって
何でなければならない、というのはナンセンスな気がします。
また、譜面をみて思うのは「譜面に縛られないようにしよう」
ということです。いま、目の前にある譜面は覚え書きのひとつである
と思うようにしています。これはたぶん邦楽の基本なのではないかと
いまでは思います。
何故って、「確実なる伝承」というのは実は存在せず
むしろ、断絶した琴を戦後60年近くかけて諸先生方が再興して
こられたと思うからです。
では、何を根拠にすればいいのか?ということですが
譜面どおりに教えてもらった後に、自分の解釈が生まれるまで
練習を重ねる、ということしかないのではないかと思います。
いろいろと考えてもどうしようもないのですが
邦楽を深く知る、あるいは体得することが、
すなわち一絃琴を知ることに繋がることではないかと
今は考えています。
そうでない社中もあるかと思います。
このことは前にも書いたことがあります。
(「D」で合わせておられる先生もみえます。)
習い始めの頃、この音で「三」以下の音を歌うのが
めちゃめちゃしんどい!?(苦痛な)ことでした。
とにかくわたしには低すぎて、もう、唸っているようにしか
聞こえないような状態でした。
ごくごく初期に「須磨」をやるので、この曲は初心者が入門した
途端に弾くには難しいのではないかと思ったりしました。
特に歌いだしの部分が出にくく、「三」からいきなりは出られないので
「わくらば」の「わ」を「二~三」(わ~)というふうに
歌って、やっとこさ歌い出せた記憶があります。
開放弦の音を何にするのか、というのは
たとえば社中全員で合奏するとか、何人かでアンサンブルのように
弾くとか、そういうことがあるので必要なのかもしれませんが
一絃琴の有りようからすれば、弾く人の声にあわせればいいのであって
何でなければならない、というのはナンセンスな気がします。
また、譜面をみて思うのは「譜面に縛られないようにしよう」
ということです。いま、目の前にある譜面は覚え書きのひとつである
と思うようにしています。これはたぶん邦楽の基本なのではないかと
いまでは思います。
何故って、「確実なる伝承」というのは実は存在せず
むしろ、断絶した琴を戦後60年近くかけて諸先生方が再興して
こられたと思うからです。
では、何を根拠にすればいいのか?ということですが
譜面どおりに教えてもらった後に、自分の解釈が生まれるまで
練習を重ねる、ということしかないのではないかと思います。
いろいろと考えてもどうしようもないのですが
邦楽を深く知る、あるいは体得することが、
すなわち一絃琴を知ることに繋がることではないかと
今は考えています。