今日の絵日記の絵(写真)は、電線で”寛ぐ”燕の一家?である。
幼き子供たちも成鳥し、南に移動するのだろうか・・・?
幼稚園に入園するまでの幼年期、私・ふくちゃんは「自転車競技(競輪)」に、参加していた。
走路は学校の運動場であった。
そう!”バンク”など無い、平坦な走路であった。
曲がり切れなくて、走路を外れる事など当たり前であった。
兄は、スピードと回転走路の関係で大きく反れて、作業用に置いてあった「トロッコ」に飛び込む事故を起こした事があった。
その「トロッコ」の中で、女児が二人”お飯事”をしていた。
幸いにも異変に気付き、女児・二人は退避した。
兄も・女児も無傷で、事なきを得た。
平面走路の危険を教えられる事故であった。
70年ほど前、父を先導者として、私達・兄弟と仲間たちは遠征した。
宿泊所で朝を迎え、自転車を組立て競技の準備を整えていた。
見上げた電線に、多数の”燕”がいた。
余りにも多い燕に疑問を抱いていると「南に行くんだろう!」と、父の教えであった。
子育てが終わり、永い道のり(海上)を乗り越え、南に移動する。
そして、困難を乗り越え、来年・子育ての為に、再び・日本にやって来る。
”渡り鳥”の習性を教えられた。
そう!今日の”燕”を見て、70年程にもなる昔の、とある朝を思い出した。
その父も、居なくなって久しい。
蛇足:当時の競輪は、成人・少年・幼年のクラス別があった。
その日の私は、対戦者が居なかった様で、兄の少年クラスに参戦したが、周回遅れで到着する成績であったと、記憶している。
優勝の証を持った兄と私が、写真に収まっている。
此処でも疑問が生じる。
写真が現存する事である。
カメラなど無かった時代である。
地元の新聞記者から、記念に贈呈された!と、教えられ記憶している。
因みに、娯楽のなかった戦後の時代に、娯楽として”自転車競技(競輪)”は各地で開催されていた。
その娯楽も”賭け事(賭博)”の対象で有った様だ!(違法行為)
そして「自転車競技法」が施行され”競輪場”が設置(各県1ヶ所)された。
娯楽としての”自転車競技”は無くなった。
”競輪場”が出來た事によって「警察官・護衛の中で”博打”出来る」とは、幼き頃に聞いた言葉が今も思い出される。
この法律によって、プロとアマチュア競技が区分された。
私の出番も無くなった。 良かった・・!