がんぼのぶらり紀行

北海道オホーツク遠軽で、昭和時代のお茶の間みたいな食堂 やってる おばちゃんです。

8月22日 モト・オット逝去の一報

2016年08月25日 17時58分50秒 | 徒然

同僚を送り届けた北見の病院で、広島の弟嫁さんから電話を受けた。

馴染みのあるイントネーション、聞き覚えのある声。

しかし相手は、私の名前を確認し、自分が誰か名乗り出た上で、「驚かないで落ち着いて聞いて下さいね」と切り出した。

昨年1月から闘病生活を繰り返して来たモト・オットが、8月22日(一昨日)逝去。

すべて終えたので連絡をさせていただいた、との電話だった。

「離婚した事実」は、通常であれば喪主として行わなければならない告別式等の一切を仕切ることなく、

姿かたちもなくなった上での報告となった。

コツも広島の実家墓地に両親と共に入ることになるのだろう。

わずか10数分ではあったが、13年前に遠軽を離れ広島へ戻ってからの数年間の生活、病気が発覚してからこちら、K宅に相当手をかけさせたことなどを聞き出した。

「一人住まいだった家の後片付けにしばらく通わなければいけないのですが、心配なのは消費者金融などから借りていないか、今はなくとも、後々催促など来なければいいということ」

「今のところ、それらしい通知などは見つかっていません」

仕事ができる身体なのに、しなかった という話を重ねて聞いた。

高齢の母親が身の回りの世話をし、本人はいつも茶の間でテレビを見ていたという話も聞かされた。

こちらにいた時と、何も変わらなかったということだ。

義兄が病気で逝ったあと、残った兄嫁、弟夫婦と、「独り立ちしてもらわないと母親が可哀想だ」「そんなに言うなら出てってやる!」と、大喧嘩状態で飛び出していったそうだ。

向こうの実家を出たのち、一人住まいをはじめ、何かしら仕事もしていたようだが

病気が発覚してからはそれもできなかっただろう。

消費者金融なども十分不安材料なのだ。

モト・オットが一人住まいする、車で1時間の隣町へ この数年は、弟が仕事を休んでは三日に一度ほどの頻度で様子を見に通っていたという。

入院してからも、無理を言って退院し、また倒れ を繰り返し、ひとりでは立つ事もできなくなってさえ、「家へ帰る」と無理をいい、ケアマネさんからも見放されるほどの傍若無人ぶりで、ほとほと手を焼いたと言われた。

「痛みはなかったんでしょうか・・」という質問に、

最期は眠るように逝かれたと。 痛みを訴えることはなかったそうだ。

書き連ねたいことが頭の中を巡るが、言葉として表すのが 今は難しい。

広島には心から感謝します。最期までほんとうにありがとうございました。


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