唐松林の中に小屋を建て、晴れた日には畑を耕し雨の日にはセロを弾いて暮したい、そんな郷秋<Gauche>の気ままな独り言。
郷秋<Gauche>の独り言
猫的生き方
世の中には猫派と犬派がある(いる)らしい。「猫派はこういう人、犬派はこんな性格」とは、よく耳にすることである。これって「彼女は(血液型が)A型だから○○○○なのよ」とか「あの人はB型だから△△△△だと思うわ」と同じで、こういうステレオタイプな見方は、郷秋<Gauche>は好きではない(だから郷秋<Gauche>は医者以外には血液型を教えない。だいたい性格と血液型は無関係なんだから)。猫「派」とか犬「派」という言い方も好きではないが、世の中に猫好きと犬好きがいることは間違いないようである。
郷秋<Gauche>は猫が嫌いだった。自分の気が乗らないと飼い主さえも無視する、その生意気な態度が気に入らなかったのだ。その点犬は、どんなに遠くからでも飼い主を見かけると尻尾を振って駆け寄って来るところが可愛い。でも猫好きの中には、犬のそんなところを「媚を売る」と表現する人もいる。
猫が嫌いだった郷秋<Gauche>だが、実はここ数年、猫が好きになってきた。というよりは猫的生き方に憧れるようになってきたと言った方がよいのかも知れないな。つまりだ、人に媚びない、自分の気持に正直に行動する猫的生き方こそが、自己をより開放することの出来る人間的な生き方なのではないかと思えてきたのである。
まっ、そんな屁理屈は置いておくとしてもだ、だいたい犬は鎖かロープかリードか知らないが、要するに四六時中何かにつながれているではないか。一方、猫はそん風に縛りつけられることはない。仮に家の外に出られないとしても、少なくとも家の中では自由に動き回ることができるし、もし家の外に出られるのであれば、どこへだって自由に行くことが出来る。猫は自由なのだ。だから郷秋<Gauche>は猫的生き方に憧れ、猫が好きになってきたのだろう。
猫が嫌いだった頃の郷秋<Gauche>は、猫にはまったく好かれなかった。郷秋<Gauche>が猫の方を振り向くと、危険を察知したかのように走り去るか、あるいは無視されるかのどちらかだったが、最近は違うぞ。勿論擦り寄ってくることはないけれど(時にはそんな「犬的猫」もいないわけではないが)、少なくとも逃げはしないし、カメラのレンズを向けると「目線」をくれるようにさえなった。ただ、その目が「お前さんもさ、いろんなしがらみを捨てて早く猫的自由を手に入なよ」と訴えかけているようで、チョイと戸惑う郷秋<Gauche>なのではあるが。
今日は、珍しく記事本文に相応しい一枚。写真には写っていないが、すぐ右側にもう一匹日向ぼこりのトラ猫がいる。トラ猫三兄弟である。
郷秋<Gauche>は猫が嫌いだった。自分の気が乗らないと飼い主さえも無視する、その生意気な態度が気に入らなかったのだ。その点犬は、どんなに遠くからでも飼い主を見かけると尻尾を振って駆け寄って来るところが可愛い。でも猫好きの中には、犬のそんなところを「媚を売る」と表現する人もいる。
猫が嫌いだった郷秋<Gauche>だが、実はここ数年、猫が好きになってきた。というよりは猫的生き方に憧れるようになってきたと言った方がよいのかも知れないな。つまりだ、人に媚びない、自分の気持に正直に行動する猫的生き方こそが、自己をより開放することの出来る人間的な生き方なのではないかと思えてきたのである。
まっ、そんな屁理屈は置いておくとしてもだ、だいたい犬は鎖かロープかリードか知らないが、要するに四六時中何かにつながれているではないか。一方、猫はそん風に縛りつけられることはない。仮に家の外に出られないとしても、少なくとも家の中では自由に動き回ることができるし、もし家の外に出られるのであれば、どこへだって自由に行くことが出来る。猫は自由なのだ。だから郷秋<Gauche>は猫的生き方に憧れ、猫が好きになってきたのだろう。
猫が嫌いだった頃の郷秋<Gauche>は、猫にはまったく好かれなかった。郷秋<Gauche>が猫の方を振り向くと、危険を察知したかのように走り去るか、あるいは無視されるかのどちらかだったが、最近は違うぞ。勿論擦り寄ってくることはないけれど(時にはそんな「犬的猫」もいないわけではないが)、少なくとも逃げはしないし、カメラのレンズを向けると「目線」をくれるようにさえなった。ただ、その目が「お前さんもさ、いろんなしがらみを捨てて早く猫的自由を手に入なよ」と訴えかけているようで、チョイと戸惑う郷秋<Gauche>なのではあるが。
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今日は、珍しく記事本文に相応しい一枚。写真には写っていないが、すぐ右側にもう一匹日向ぼこりのトラ猫がいる。トラ猫三兄弟である。
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