弁護士太田宏美の公式ブログ

正しい裁判を得るために

自分の依頼者を騙す弁護士・弁護ミスについて

2023年01月15日 | 弁護士の仕事

今年初めての投稿です。

2023(令和5)年を迎え、早、2週間が経過した。

今年は新しい年にしたいとの思いが湧き上がっている。
7月に80歳になる。身体の老化は喜寿から始まったように思う。

ウオーキングは毎日の習慣になっている。アップルウオッチの監督下にある。サボるわけにはいかない。
去年は、10回にわけて、日本橋から京都三条大橋まで東海道をウオーキングするツアーに参加した。
食べる楽しみも忘れ難い。各地の文化に触れて脳の活性化もできた。
80歳には新しい健康の在り方があるはずだ。今年はそれを見つけようと思う。それが一つ。

もう一つは弁護ミスについてである。
理由については「虚飾の聖域」を読んでいただければお分かりいただけるであろう。
あれこれと思いを巡らすうちに、ふと、弁護ミスとは何かを思索するようになっていた。
委任した弁護士が、事実を聞こうともせず、理解もせず、説明もせず、思い込み・怠慢・無知・無能・その他理由はなんであれ、弁護士の頭に浮かんだ事実、間違った解釈により訴訟を進めたとしても、その結果は弁護士ではなく依頼者が負うことになる。
それって、弁護士による押付けに他ならない。だとすると、弁護ミスではないかと判断するようになった。
迷いがあったが、放置すれば10年を過ぎる。思い切って質問書を送った。相手は一審一人、控訴審二人の三弁護士だった。再質問しても、結論だけで、理由は一切なかった。
弁護士としての私のやり方と決定的に違うという「やり方」の次元の問題ではない。
弁護士の「説明責任、インフォームドコンセントを得る義務」違反の有無の問題である。

中国でコロナ発生のころであった。調停申立てをした。説明一切なしにつき、訴訟提起した。
調停も訴訟も、裁判所は弁護ミスはあり得ないとの前提のようである。
納得する説明がほしいという願いだけだったが、弁護ミスが絡むと当然発言は慎重になる。元々説明しない委任弁護士らから説明など期待できない。
意外と思うかもしれないが、裁判所はワンパターンな組織なので、その点は気にすることはないが、弁護ミスはあり得ないとのワンパターンな裁判所を説得するのは、一筋縄ではいかないことである。
特別な策などない。根気よく、粘り強く、言い分を説明するしかないが、決定的な何かが必要ではある。
自己に不利益な証拠は出さないものである。自己に不利益なことには言わないものである。
とはいえ、嘘をついたり、騙したりしていると、意外と提出されていることがある。
ソクラテスの名言に「嘘はいつまでも続かない」がある。
物事というのは視点が異なれば、見え方も評価も異なるものだからである。
気が付くかどうかであり、気が付くには、提出された書面や書証を、ショーロックホームズが地面や床に這いつくばり虫眼鏡で隅から隅まで徹底的に探査するように、書証・書面をすべて、内容を細部まで一文字も見落とさない覚悟の徹底的見直しの必要がある。

漸く最高裁判所まで到達できることになった。

相手方提出の書証に、代理人の1人が、高裁が同弁護士に指示した内容を他の代理人に報告し、対応の検討をしたいと連絡するFAX送信があった。
依頼者である私に当時報告した内容・弁護ミス訴訟で私に報告したと主張し続けた内容と全く真逆の内容であった。
依頼者である私に嘘をついていたのである。
依頼者である私が内容に納得せず提出に同意していない書面を裁判所に提出していたらしい。その内容についての裁判所の指示である。詳細は後日とするが、委任弁護士が依頼者を騙し(裁判所も騙し)自分のしたいようにして和解を押し付けたということになる。しかも、その和解は、代理人の言に反し、依頼者である私に二倍以上の負担・損害を負わせるものだったのである。不審に思い、それでも訴訟しかないと思ったのは、理由・根拠があったのである。

自らの依頼者を騙し、減額したは嘘で、実際は倍以上の損害を負わせる和解をおしつけた委任弁護士!信じられないがいるのである。

いずれにしても、あってはならないことである。

辛い思いをした、未だに引きずっている。そういうことも含め、何かをしなければという切羽詰まった思いである。

同じ経験を持つ人は多いのではと思う。というのも、委任弁護士は3人とも普通の弁護士である。中心の一人はテレビにも出演しているらしい。

1人では何もできない。

ご支援をいただければ嬉しいなと思っている。


エリザベス女王の言葉(信じてもらうためには見てもらわなければならない)から学ぶことー弁護士の視点で

2022年09月23日 | 弁護士の仕事

始めにーエピソード

9月8日死亡から19日の国葬までの12日間、世界はエリザベス女王一色で塗りつぶされた。エリザベス女王は一生を公務に捧げると誓った。そのとおりだった。2日前の6日に新首相のトラス氏をスコットランドのバルモラル城に招いて指名した。最後の公務だった。リラックスした服装と不釣り合いに見えるハンドバックがその証である。ハンドバックといえば、即位70周年記念の「女王と国民的キャラクター『くまのパディントン(Paddington Bear)』がバッキンガム宮殿でお茶をする」動画で、パディントンが「大好物のマーマレードサンドイッチをいつも『緊急用』に帽子の下に入れている」というと、女王も「私もここに入れています」と言ってハンドバッグからサンドイッチを取り出すユーモア溢れる映像は、世界中のプラチナジュビリー行事を見る者を驚かせたことは記憶に新しい。

   

   

   

We have to be seen to be believed.

 女王はいつも「We have to be seen to be believed(信じてもらうためには見てもらわなければならない)」と言っていたという。ダイアナ妃の事故死をきっかけに始まったものと推測される。人によって解釈は異なるかもしれない。しかし、単なる広報とか情報公開とかトランスペアレンシーとは異なると私は思う。受動態になっていることがポイントだと思う。言葉のとおり、行動をみてもらうということではないか。女王は露出を増やし、国民に寄り添うメッセージを積極的に発信するようになったという。今回の国葬はその実践の集大成のように思う。国葬で、チャールズ国王を筆頭にシニア世代の子供たちや孫のウィリアム皇太子やハリー王子が女王の棺の後ろを決して短くはない距離を歩く姿は、女王にお別れをすべく長い行列を作って何時間も待つ一般弔問に訪れた人々の姿と重なる。結局は、共感ではないだろうか。
なお、次男のアンドリュー王子(及びハリー王子)については、私的部分では軍服着用していたが、公的部分ではしていなかった。これは、女王というよりは、他の者が、女王の言葉を実践していたのではと思う。女王も人間である。完全無欠ではない。

女王は時代の変化とともに年齢とともに変わった。公務に捧げる姿勢が生涯変わらなかったからこそ、見る者・信じてもらう者の変化に女王が柔軟・適切に対応し続けることを可能にし、信頼に応えることができたのだと思う。根底には、君主制の存在に対する時代の変化に対する危機感もあったであろう。君主と国民は、持ちつ持たれつである。極めて現実的人間だったのでは思う。

学ぶことーその1(安倍元首相の国葬)

主に二つある。

一つは、折しも日本では安倍元首相の国葬反対の声が大きくなっている。女王の死亡により、10日後の29日が安倍元首相の国葬となった。皮肉なものである。国葬とは何かを考えるいい機会となった。

国葬とは「国家にとって特別な功労があった人物の死去に際し、国費で執り行われる葬儀」のことである。国葬の対象は国によって異なる。米国の場合は、大統領経験者は在職中の評価とは関係なく基本的には対象となる。ニクソンは辞退したという。英国では、国葬の対象となるのは原則国王であり、厳格に定めた儀式による。(以上、ウィキペディアによる)

なお、エリザベス女王の場合、棺が霊柩車で運ばれる場面と海軍の砲車で運ばれる場面があったが、砲車部分が国葬で、霊柩車部分は王室行事ではないかと思われる。日本の場合も天皇の崩御に際し行われる「大喪の礼」は国葬として、宗教儀式として行われる「大喪儀」は皇室主催儀式という。

1 実質的理由

安倍元首相は総体としての国民を納得させる程度に、吉田茂の第二次世界大戦敗戦からの国家再建という功績に匹敵するほどの国葬に値する功労があったかである。

①誰もが銃撃にショックを受けたことは事実であるが、銃撃そのものは、警備体制の不備というお粗末な理由による。

②テロの被害者だという人もいるが、テロとは「政治的な目的を達成するために暴力および暴力による脅迫を用いること」である。宗教(統一教会)を巡る家庭内の問題であり、政治的目的でないことは明らかであり、テロではない。テロの被害者には該当しない。

③銃撃に遭った際、安倍元首相は党派を超えた大義のために戦っていたわけではない。一自民党候補者の参議院選挙応援演説中に起こったにすぎない。一候補者のための私的政治活動支援中の事件である。せいぜい、自民党党葬までである。

④憲政史上最も長く首相を務めたという。通算3188日(8年と268日)は最長とはいえ10年以下である。英国のサッチャー元首相は20世紀以後の最長記録の11年と208日という。在任期間の長さをいうなら、70年とはいわないが、やはり、社会通念では最低10年が基準ではなかろうか。短すぎる。

⑤実績についての評価である。英国のサッチャー元首相(鉄の女)について、フォークランド紛争を勝利に導き、その勢いで不況にあえぐ英国社会を建て直したが、一方で貧富の差を拡大したとの非難がある。国民の評価は二分していた。首相当時のサッチャー氏が、グラフを基に、格差拡大したとしても、すべての層の富(収入)の絶対値が増加したのだから、いいのではないかと議会で説明するのをテレビで見た記憶がある。ちょっと違うかなと感じたことを覚えている。だから、サッチャー元首相は国葬を辞退し、準国葬で行われた。安倍元首相の評価も、どちらかというと二分しているように思う。個人的にはアベノミクスが成功したとの実感はない。日本経済は失われた20年を過ぎ(異論はない)、浮上することなく30年も過ぎたという声もある。

⑥政治姿勢についてである。エリザベス女王の「信じてもらうために見てもらう」という国民に尽くすという精神のことである。安倍元首相については桜の会など在任中からいろいろ問題があった。黒川・東京高検検事長辞任問題の記憶が蘇る。米国では、ウオーターゲート事件で辞任したニクソン大統領が国葬を辞退した。そこまで極端ではないが、安倍元首相の場合は、1回目は持病の潰瘍性大腸炎に悪化による任期満了前の自己都合辞任である。2回目は潰瘍性大腸炎の再発による任期満了前の自己都合辞任である。新型コロナ大流行の真最中に首相の職責を投げ出した恰好である。

2 手続き問題

これは岸田首相の政治姿勢に係わる。エリザベス女王の「信じてもらうために見てもらう」という国民に尽くすという精神のことである。政治家は国民から信託を受けているに過ぎない。その信認を裏切ってはならない。首相になるということは好き勝手ができるのではなく、逆に、重責を担う首相は好き勝手が出来なくなるということである。国葬には膨大な税金が投入される。支出増は必ず国民に跳ね返る。上述1のとおり、国葬を正当化する実質的理由は極めて弱いことを考慮すると、国民の総意を問う必要がある。すなわち、国会の議決である。必須である。

しかるに岸田種首相から見えることは、勘違いをしていることである。信頼とは程遠い。民主主義の存在意義に完全に反するものである。国民の支持率低下は、岸田首相の本質を国民が「見て」「信じられない」と判断するようになったということであろう。

とはいえ、国葬が中止になることはないであろう。政治家ではないので、妙案は浮かばないが、世界の要人を相手に結果オーライとなるよう岸田首相の健闘を祈るのみである。

学ぶことーその2(民事裁判の被告訴訟代理弁護士の使命)

二つは、民事裁判の弁護士活動に係る。訴訟代理は弁護士独占とされている。基本的人権の擁護及び社会正義実現は弁護士の使命である。刑事事件は基本的人権の擁護にかかわる。民事事件は社会正義に係わる。

刑事事件は、起訴に当たって検事の慎重な取調べが行われている。それでも無罪が起こることは避けられない。民事は誰でも訴訟提起可能である。事前の公的機関によるチェックはない。よって、根拠なき訴訟提起が起こって当たり前といえよう。

私の経験したアブラハムプライベートバンク事件はその一例である。幸い訴訟詐欺にあたるとの判決を得ることができたが、大変な苦労をした。公的機関による事前のチェックがないにも関わらず、証拠が偽造・嘘であることが確実にならない限り、民事については、裁判所は大体において原告の主張を認める。根拠がないにもかかわらず、岸田首相が国葬決定をしたのと同じである。被告弁護士も原告の主張を鵜呑みにする者が多い。嘘を証明するのは極めて困難だからである。岸田首相が国会の議決を省略したことと同じとみてよいだろう。

人権にかかわらないから誤判があっても無視できると考えられているが間違いである。刑事事件のように情状を争うだけでいいなどという安易な姿勢は到底容認されない。仮に1件1件は大きな金額でなかったとしても、誤判が多ければ、総体的見地からは社会正義の侵害は許容限度を超えることになる。嘘を見逃した誤判というのは訴訟詐欺という詐欺を見逃すことである。現在の社会は詐欺で溢れている。訴訟詐欺が横行するということは、裁判によるチェック機能が働いていないことに他ならない。法治国家の根幹を揺るがす深刻な事態であり、正常な姿ではない。

民事訴訟の被告訴訟代理人を受任した弁護士は、依頼者からの信託という点では、範囲は、委任された事件と極めて限定的ではあるが、女王業と質的には同じである。よって、行動によって、依頼者に見える形で、信じてもらえる訴訟代理をすることが使命である。弁護士独占制度の存在意義に係わることである。そういう思いを強くした。

終わりに代えて―感想

エリザベス女王の偉大さ、凄さを知った。荘厳で、豪華で、優美な国葬は、英国の歴史と国民性・文化と国力を可視化したもののようである。エリザベス女王はその体現である

棺は極めて英国的だと思う。弔花はとても優雅である。周りの人をも包み込んでしまいそう。

   

   

     

2022.9.23


園児置き去り死事件ー弁護士の視点で

2022年09月15日 | 弁護士の仕事

事件後10日が経過した。二人の大人がいて,わずか6人の園児のバス送迎がまともにできず、1園児をバス内に取り残してしまう、あり得ない事故が、なぜ起こったのだろうか。弁護士の視点で分析して、記者会見から見えてくるのは、幼稚園の無責任体制である。

事案のあらまし

事案は、2022年9月5日静岡県牧之原市認定こども園「川崎幼稚園」で8時に出発した通園バスに園児の河本千奈ちゃん(3)が降車時(8時50分)に取り残され、午後2時の帰りの送迎準備の際、心肺停止状態で見つかるまでの約5時間にわたって車内に置き去りにされ、病院に搬送されたが、間に合わず、熱中症で死亡したというものである。

本来のバス運転手が休暇を取り、臨時の運転手3人にも代行を断られたため、増田立義理事長兼園長(73)が代わりに運転した。理事長の運転は初めてではなかった。バスには女性派遣職員(70歳代)が乗っていた。

川崎幼稚園は7日記者会見し、理事長は「安全確認ができていなかったこと」を謝罪した。記者の「今回の事案はたまたま起きたミスか、起こるべくして起きたのか?」の質問に「両方だと思います」と答えた。

当日の事実関係としては、理事長(臨時運転手)は「最初の1人を降ろした後、残りは、自分で降りるように声をかけた。」だけのようである。派遣職員は、どうも何もしなかったのではないだろうか。副理事長の「乗務員はふだん、いつもの運転手と協力して、そういうこと(確認)ができていた。任せきりにしていたところもあった。今回、臨時で園長先生が運転することになった時に(確認を)やってくれるだろうと思っていた。でもそこがコミュニケーション不足だった。『お願いします』と言うとか、確認を自分でする方法をとっていれば良かった」との発言から推測するしかない。

登園情報については、「休みや遅刻などする場合、保護者がアプリに、その旨打ち込みますが、登園する場合は何も打ち込みません。千奈ちゃんの保護者は、何も打ち込んでいませんでした。」「連絡がなく休むことが実際、千奈ちゃんの場合はなく、お母さんはいつもきちんと連絡をしていたのですが、(連絡なく休む園児もこれまでにいたので、千奈ちゃんもそうだろうと)、この日、千奈ちゃんは休みかなって思ってしまったというよことがありました。」が、副理事長の説明である。

置き去りの原因について副理事長の説明

副理事長は、バスを運転した理事長やクラス担任、クラス補助らの思い込み・確認不足のミスが重なり、置き去り死事件を招いたとし、置き去りの原因について、「1つは、バス下車時に、乗車名簿と実際に下車する園児を照合する決まりとして伝えられていなかった。2つ目に、バスが幼稚園に到着し、園児がバスに取り残されていないかのダブルチェックする決まりになっていなかった。園児が下車した後に、運転手がバス車内を確認しなかった。」「3つ目に、クラス補助が最終の登園確認をしていなかった。4つ目に、登園する予定の園児が教室にいなかったにもかかわらず、クラス担任が『職員室に確認』『保護者に問い合わせ』をしなかった」という4つのミスが重なったと説明した。

分 析 

副理事長の説明に問題はないだろうか。原因解明が正確・適切でなければ、適切な救済も適切な送迎バスの安全管理対策も期待できない。以下分析する。

1 送迎バス業務について

1つ目及び2つ目は送迎バス業務に関するものである。事実に沿うわかりやすい説明はつぎのようになると思われる。臨時運転手・園長の明らかな決まり違反が曖昧にされているようである。

1つ目については、臨時運転手には「実際に乗車名簿と照合して園児を下車させる」という降車時の決まり違反があった。理由は、決まりを伝えられなかったので、臨時運転手は決まりを知らなかった。派遣職員は「いつもの運転手と協力して、そういうこと(確認)ができていた。任せきりにしていたところもあった」というので、派遣職員は決まりを知っていたかもしれないが、派遣職員の仕事ではなかったのであろう。

2つ目については、「臨時運転手は、取り残しのダブルチェックをしていないが、ダブルチェックの決まりがなかったので、決まり違反をしたわけではない。」となる。

2 1についての副理事長の説明の問題点

送迎バスの役割は、保護者に代わって園児を幼稚園に登園させることであるから、全員の降車確認をし、全員を担当の職員に引き継いで初めて任された仕事の完了となる。決まりの有無に関わらず、手っ取り早く全員降車を確認する方法は、置き去りのチェックである。誰でも思いつく手抜きの方法である。特に相手は幼稚園児であるから、置き去りチェックの手抜きはできないが、乗車時のチェックに間違いさえなければ、乗車名簿との照合はせずとも送迎業務の完了とできる。降車時における実際の乗車名簿との照合が問題となるのは、乗車時に人まちがいをしたというような稀な場合にしか起こらないからである。送迎バス運転手は、運転するだけでなく、全員を降車させ、職員に引き継ぐまでが仕事である。運転手は、全部を自分自身でやる必要はなく、運転以外の部分、乗車・降車の確認等は、派遣職員に指示して代わってしてもらうことも可能である。

本事案の死亡は置き去りの直接の結果であること、臨時運転手(理事長・園長)及び派遣職員は、定められていた到着後の園児の降車確認(乗車名簿と照合)を行っていなかった(職務上の注意義務違反)。乗車名簿と照合しながら降車確認をしていたならば、千奈ちゃんの置き去りは回避できたはずであるから、1つ目のミスは、決まりを伝えていなかったではなく、決められた降車確認をしなかったことだと思われる。

2つ目については、決まりがあっても守らない本事案では、ダブルチェックの決まりがあったとしても守られることはなかったはずである。臨時運転手・園長には、送迎バスの業務に対する仕事意識・責任感が全くなかったということである。したがって、2つ目のミスは、ダブルチェックの決まりがなかったではなく、臨時運転手・園長の仕事に対する責任意識の欠如(ミス)になるはずと思われる。

降車させることは、運転手の職務・仕事そのものということである。副理事長にはわかっているはずである。理事長(園長)も「送迎バスの運転手の仕事内容」としては理解しているはずであるが、「私の”園長”という立場か習性かもしれないんですけれど」という本人の言葉のとおりであり、運転手代行に頭の切替ができていなかったということである。

3 登園情報業務及びこれについての副理事長の説明の問題点

3つ目及び4つ目は、幼稚園の本来業務に関するものであり、付随業務である一部の希望者を対象とする送迎バス業務とは直接関係はない。したがって、送迎バス業務に固有の置き去りとは全く無関係であるから、置き去りの原因といういうのは明らかに間違いである。

アプリは、「休みや遅刻などする場合、保護者がアプリに、その旨打ち込みますが、登園する場合は何も打ち込みません。」というのであるから、「出欠アプリ」というよりは「欠席・遅刻等通知アプリ」のようである。

3つ目について、いかなる意味でもミスではない。最終(登園時刻経過後)の登録画面を確認していたとしても,画面は同じであったはずである。保護者は送迎バスに乗車させ、その後の置き去りを知らないので、乗車と同時に登園と認識しているはずあるから、欠席や遅刻の打ち込みをすることはあり得ない。運転手は、送迎バス降車時の降車不確認による置き去りの認識がなく、登園している認識であるから、「登園」の登録画面が変更されることはない。アプリの仕組みから、登園時刻が来るまでは、「登園」は「登園予定」の意である。何の問題も発生していない。

4つ目について、臨時運転手・園長によるバスの施錠により置き去りは既に発生済であるから、置き去り後に行うクラス担任の「職員室に確認」「保護者に問い合わせ」は、置き去りの原因ではない。副理事長の説明は、事実として間違いである。
クラス担当が、出欠の確認をしていたならば、送迎バス業務担当者(運転手)の決まり違反により発生した置き去りという事実の早期発見のきっかけとなり、早期発見していたならば致死を回避できた可能性があったとしても、クラス担当の確認は、欠席や遅刻の通知忘れか否かが目的である。早期発見や致死の回避は反射的効果であり、クラス担任には、いかなる意味でも送迎バス降車時の確認義務違反による置き去りを発見すべき職務上の義務はない。要するに、クラス担任が自己の職務外の送迎バス業務についてミスを犯すことは不可能なのである。

登園情報を問題とするのであれば、後記の福岡県の指針にもあるように、降車後の園引継ぎ担当者の決定、担当者による園児の引渡し、出欠確認方法などバスから園への引継ぎ手順の明確化であるべきである。乗車名簿はあったようであるから、仮に、降車時に見落としがあったとしても、引継ぎの段階で、千奈ちゃんの不在が確認でき、置き去りは未遂になったはずである。

副理事長が、送迎バス業務と全く無関係の登園情報業務について、係る誤りをしたのは、川崎幼稚園・職員全体が自己の仕事に対する規律遵守意識を欠如していることの現れである。クラス担任はこれまでも連絡なく休む園児がいたので、千奈ちゃんもそうだろうと思ったというのも同じ現れである。同幼稚園では、ルール違反が常態だったのである。危機管理、安全管理だけでなく通常業務管理を含め、管理体制全体が杜撰だったことが見えてくる。

結論

理事長は「たまたま起きたミス」というが「ミスは日常茶飯事だったが、今回はミスがたまたま死亡という重大事故に発展したもので、起こるべきして起きた事故・事案」だったということであろう。

対象が大人の集団の場合であっても、目的地で下車するときは、忘れ物の有無のチェックをするのは社会通念・常識である。ましてや3~5歳の幼稚園児である。忘れ物チェックをしていたならば、大きな忘れ物・園児の置き去りも回避できたはずである。本事案の場合は、園長・運転手も派遣職員も、園児に係わる仕事をしているにもかかわらず、かかる最低限の常識すら見受けられない。

園の、職員全体の、仕事・職務に対する責任意識の自覚・改善がない限り、同じ事故は必ず起きる。
園長の立場・習性があるなら、「残りの5人には自分で降りるように声をかけた」ときに、続いて女性派遣職員に「みんな降りたか確認しておいてね」と一言声掛けすれば、置き去りは回避できたのである。臨時運転手が園長であったことは、責任の加重事由になることはあっても、軽減事由にはならない。

なお、令和3年7月29日の福岡県で起こった同様の死亡事案を受けて福岡県が同年9月策定した「福岡県保育施設による児童の車両送迎に係る安全管理基準の指針」ここは参考になる。

最後に、正確な分析には、正確な情報が必須であるが、上記福岡県の指針の「Ⅱ3、4」に該当する情報等は得られないまま、取り敢えずの限られた情報に基づく感想であることをお断りしておく。


なぜ、アブラハムプライベートバンクは架空請求訴訟を起したのか?

2022年04月01日 | 弁護士の仕事

前回に引き続いて。

なぜ、ヘッジファンドダイレクトは、アブラハムプライベートバンク時代の、投資助言契約を
締結していないことを知りながら、投資助言料請求訴訟を起したのでしょうか?
考えてみたいと思う。
1 追い詰められている。
2 嘘が通用することをしり、味をしめ、金融庁や裁判所などを甘くみている。
3 いずれにしても順法精神のかけらもない。
などの理由が考えられる。
消費者、健全な金融制度にとって深刻なのは2である。

金融庁の行政処分の主たる理由は無登録で海外ファンドの販売等をしたことであった。
なぜ、それが問題なのか?
金融商品取引法は、投資者保護の観点から、金融業者の行う内容によって、登録要件を
定め、かつ、それぞれの業務の内容に応じた財産的基礎や行為規制を整備しており、
販売業者には、単なる投資助言業者とは異なり、より、厳しい要件を課しているからである。
ところで、証券取引等監査委員会の「最近の証券検査における指摘事項に係る留意点」
(平成22年4月~平成28年3月公表分)によると、
他の投資助言・代理業者の処分事例については、判で押したように
「今後も、本件と同様の状況が認められた場合には、厳正に対処していく」とのコメントであるが、
アブラハムプライベートバンクについてだけは
「ファンドの募集又は私募の取扱いを行っているにもかかわらず、第一種金商業者又は
第二種金商業者であれば、法令上行わなければならない説明義務を果たしていない等、
投資者保護上の問題を生ぜしめており登録制度の根幹を揺るがす悪質な問題である。」
と極めて厳しい説明がなされている。
アブラハムプライベートバンクの審査期間は1年以上を要したという。
公表の正式の処分理由には説明義務云々はない。
ということは、公表されない説明義務違反等の制度の根幹を揺るがすような、
投資者保護に反する大問題があったものと推測される。

当時はアブラハムプライベートバンクを信頼していたが、今思えば審査期間中の平成25年に
移管問題があった。
移管というのは、例えば、A株式を甲社から乙社に移すということだが(中味は同じ)、
どうもそうでないようで、当時どうしても納得できないことであった。
ヘッジファンドダイレクトは、いわゆる移管を投資助言だと、訴訟では主張したが、
投資助言でないことはもとより、やはり、そもそも「移管」ではなかったらしい。
本訴になって、当時の資料を調べると、
いわゆるアンブレラ型ファンドで、一定の要件があるとサブ・ファンドへのスイッチ
をすることになっているもののようだ。
しかも、その一定の要件発生までの間、アブラハムプライベートバンクは購入者には
説明もせず、自ら運用できるサブ・ファンドを購入させていたものではないかと思われた。
実際は、買換えであって移管ではなかったのである。
自己の違法行為をごまかすために翻訳する時に意識的に誤訳したのである。
だから、訴訟でもまともな説明はしないし、できない。
つまり、移管というのは、購入者が本来購入したと思ったサブ・ファンドへの買い換え
だったというものではないかと思われる。
実害はなかったのかもしれないが、いや、アブラハムプライベートバンクに手数料を儲けさせた
分、収益減だったのかもしれない。
なお、判決は、言葉のとおり「移管」と解釈し、いずれにしても「投資助言」ではなく、
販売・購入に関するものと判断した。
ひとつ嘘をつくと、果てしなく続くものである。
金融庁は見て見ぬふりをした?

また、少額訴訟では、簡裁の支払督促という簡便な方法が使える。
申立てには証拠すら必要がなく、認められる。
勿論、督促異議の申立てをすると、訴訟に移行するが、簡裁では、争っても
当然のように和解手続きをすることが多い。
大抵は、裁判所の言うことだからと和解にするはずである。
アブラハムプライベートバンク、ヘッジファンドダイレクトが裁判に持ち込む狙いである。
架空請求はそういう意味でおいしかったのであろう。
本判決までは・・

本判決も簡単だったのではない。
絶望的になるほど大変だったのだ。
担当者の陳述の書面はもとより証人申請もしないのであるが(通常はするが、
アブラハムプライベートバンクの場合は真っ赤なうそなのでできないのであろう)、
それでも裁判所の判断は予測がつかなかった。
証人席に座ったのは社長の実弟の取締役だが、その証人尋問で、つぎのように質問した。
というのは、投資助言料は投資完了後、つまり、購入代金の期限内払込手続きを完了後
発生するということだったので。
問「購入の申込はした。でも、予定していた入金がなかった、用意していた資金を使ってしまった、
あるいは、気が変わってしまった、などなどで、兎に角、期限内に払込をしなかった。
当然、ファンドの購入はできないですよね。」
答「はい」
問「その場合は、投資は完了していないわけですが、投資助言料は発生しますか」
答「発生しません」
その瞬間、裁判官の「ウオー」という声が聞こえた。

この瞬間、勝ったと確信した。
こういう決定打が出ると、裁判所も安心して判断ができるのである。

仮に、アブラハムプライベートバンクの「投資先の商品の紹介購入手続き等」の助言をした
との主張が真実ならば、遅くとも「申込み時」には助言済みとなるはずであるから、購入者の
勝手な事情で払込をせず、そのために購入完了しなかったとしても、
アブラハムプライベートバンク流にいうと、折角の助言に従わなかったというだけ。
販売の場合、買い手が購入しなければ、販売手数料は発生しないのとは異なり、
「投資商品の紹介、購入手続など」が助言ならば、助言をした以上、
投資助言料が発生しないというのは理屈上あり得ないからである。

今回の判決は、架空請求・訴訟詐欺(未遂に終わったわけであるが)
アブラハムプライベートバンク、ヘッジファンドダイレクトの訴訟提起自体を違法としたもので、
金融庁の証券取引監視委員会がコメントで登録制度の根幹を揺るがす悪質な問題であることを
裁判所も別の側面から認めたということである。
それは、「法令上の」投資助言をしていないにもかかわらず、投資助言業者のしたことは
何でも「投資助言」であると身勝手・自己都合の解釈をし、
よって「投資助言料」を請求するとでもいうもので、
そういう意味で登録制度の根幹を揺るがすという趣旨である。

つまり、アブラハムプライベートバンク、ヘッジファンドダイレクトは、
無登録販売をして販売手数料をとり、無登録販売を投資助言と称し、登録投資助言者だから
投資助言料をとるという重複請求というわけである。

訴訟を通してわかったことである。
判決には、深ーい意味があるのである。

いやいや、アブラハムプライベートバンク、ヘッジファンドダイレクトの使う
契約の内容を知ると、実際は、もっと底なしの可能性がある。
投資完了後の「完了」にはもっと深いわけがあるのである。

取り敢えず、今日はここまで。