徳丸無明のブログ

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言葉という神が支配する④

2015-11-16 20:27:40 | 雑文
(③からの続き)

また、言葉なしに思考できないというのは、言葉によってしか世界を見ることができない、ということでもある。
植物学者が、未開のジャングルに入っていったとする。そこには、初めて目にする植物がたくさん茂っている。学者は、その土地に暮らす原住民に、それらの植物をなんと呼んでいるのか、ひとつひとつ尋ねてみた。すると原住民は、木の実をつける植物や、薬として使える植物については、名前を教えてくれたものの、それ以外の、自分達にとっては、毒にも薬にもならない植物については、すべて「知らない」と答えた。
この「知らない」とは、どういうことか。
原住民にとって、木の実をつけてくれたり、薬になってくれる植物は有用なので、名付けが行われているが、それ以外の、何の役にも立たない植物は、名付けがされていない、ということである。そして、名付けがされていない、というのは、見えていない、ということ、言い換えれば、意識の外に追いやられている、ということでもある。
学者にとってはひとつひとつ学名をつけて分類すべき植物群は、原住民にとっては、木の実を成らす植物の背景としか見えていないのである。
世界の見え方が、原住民の視点から、学者の視点に切り替わることもある。
また例え話をする。あなたは、平凡な生活を営んでいる一般市民。なのに、急に裁判に巻き込まれ、弁護士を雇わねばならなくなった。
「困ったわね。この辺に弁護士事務所なんてあったかしら」
探してみると、すぐ近所に弁護士事務所はあった。しかも、いつも通っている道の、いつも見ている雑居ビルの中にあったのだ。
「へえ、こんな近くにあったのね。気付かなかったわ」
これと似た経験をしたことはないだろうか。
普段、何気なく生活している時には、我々は弁護士を必要としておらず、弁護士事務所の存在に気付かない。それは、意識の外に追いやられており、ちょうど原住民が、木の実以外の植物は背景にしか見えていないのと同様に、(日常よく利用する)スーパーや薬局の背景の一部となっている。しかし、自分にとっての有用性が認められた時に、背景の中から切り取られ、ありありと立ち上がってくるのである。
この時、何が起こっているのか。
雑居ビルその他を含む背景の中から、弁護士事務所が立ち上がってくる、ということは、弁護士事務所が、背景の中から分かれる、ということだ。我々にとって、未だに用もなければゆかりもない、「ねじ工場」や「内職斡旋会社」は、なおも背景の中に溶け込んだまま、弁護士事務所だけが目に見える存在として現れてくるとき、我々は、背景の中から、弁護士事務所だけを切り取っている。
「わかる」の語源は「わける」である。我々は、「わける」ことによって「わかって」いる。
逆に言えば、「わける」ことなしに「わかる」ことはできない。分けることをしなければ、弁護士事務所は、ねじ工場や内職斡旋会社を含む、その他大勢の背景の中に溶け込んだままである。
ちなみに、この「わける」ことによって「わかる」とは、近代言語学の父たる、フェルディナン・ド・ソシュールの創見である。
ある種の捕食生物というのは、目の前に動いているものがあれば、とりあえず飛びかかり、捕獲してから、自分のエサにできるかどうかの見極めを行う。なぜこのような習性を持つのか。
それは、言葉を持たないからである。もちろん、視覚能力の問題でもあるだろう。だが、言葉の有無にもよるのである。
この手の捕食生物が、もし言葉を有しており、自分のエサとなる生物に名付けを行えるのであれば、「名付けがなされている生物」と「名付けがなされていない生物」を見分ければよい。
しかし、言葉を持たず、そのような分類を行えない生物は、「動いているもの」と「動いていないもの」という、視覚情報による分類を行うしかない。だから、とりあえず捕まえてみないと、食べられる生物かどうかがわからない。
これらの知見は、学問の積み重ねによる、近代の成果と思えるかもしれない。だが、ウィトゲンシュタインやソシュールの指摘を待つまでもなく、人類は、この言葉の正体を見抜いていた。

(⑤に続く)


オススメ関連本・福岡伸一『世界は分けてもわからない』講談社現代新書

言葉という神が支配する③

2015-11-15 21:31:17 | 雑文
(②からの続き)

2007年に、ミャンマーで大規模な民主化デモが起きた時、取材を行っていた日本人カメラマンが、デモの鎮圧に巻き込まれて命を落とす、という事件が発生した。
それを報じたある新聞は、「最悪の事態が起きてしまった」と書いていた。
悲惨な事件ではある。しかし、なぜ「最悪」なのか。
これ以前に、既にミャンマー人が何人も死んでいた。事件当日も、もっと多くの人が死ぬことだってありえた。
もっと悲惨な事態は起こりえたのに、なぜこれが「最悪」なのか。ミャンマー人は何人死んでも最悪とはならないが、日本人が一人でも死ねば最悪になるということか。
「この文脈での最悪とは、悲劇を強調するために用いているだけで、言葉通りの意味ではないのだ」
そんな説明も成り立つかも知れない。
だが、マスコミが言葉をそのように運用するというのは、「私達は、言葉を正しく使おうとはしていません。私達の言葉は、信用ならない言葉です」と、自ら宣言しているようなものである。
これをこのまま放置しておけば、マスコミに対する国民の信頼は、少しずつ失われ、誰もその言葉に耳を貸さなくなるだろう。
これは、「マスゴミ」という罵倒語を用いて、溜飲を下げることだけを目的として行われる、安易なマスコミ批判ではない。
「このままでは、そういう存在に成り下がってしまいますよ」という呼びかけである。
しかし、ここで「言葉を道具としてきちんと使いこなさねば」と思うのは間違いである。言葉は、道具ではない。
では、言葉とはなんなのか。言葉をめぐる物語から説き起こしてみよう。

デカルトは、自身の思索の出発点となる、確かな足がかりを探していた。思索を出発させるには、起点が必要だ。確かなものを、起点に据えなければならない。
何が確固としたものと言えるか、それを確認するために、デカルトは、ありとあらゆるものを疑ってかかった。目に見えるすべての事物、親しい友人知人や自分自身、果ては神の存在まで。
「これは、確かに“ある”と言えるのか」と。
結局、明確に「ある」と断言できるものはなかった。疑おうと思えば、どんなものでも疑うことができた。
しかし、デカルトは気付く。今、自分はありとあらゆるものを疑っている。この「疑う」という思考の働き、これ自体は疑いようがない。確かに、今、思考は行われている。この思考は、明確に存在する。
「我思う、ゆえに我あり」
ルネ・デカルトは、思索の足がかりを得た。哲学者として出発することができたのだ。
しかし、この余りにも有名なデカルトのアフォリズムは、のちにルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインによって、完全に退けられることになる。なぜか。
デカルトは、「我思う」を始点にした。だが、「私は思っている」という事実が成り立つためには、「私は思っている」という言葉が不可欠である。「私は思っている」という言葉なしに、「私は思っている」という事実を立証することはできない。
ここでいう言葉とは、話し言葉でも、心の中のつぶやきでも、文字であっても同じことだ。我々は、言葉なしに思考することはできない。
だから、デカルトは「私が思っている」状態が一番最初にあると考えていたけれども、実際にはその前に、「私は思っている」という言葉があったのだ。
さらに言えば、「私は思っている」という言葉が成り立つためには、「私」「は」「思って」「いる」という、ひとつひとつの単語を前提とするし、その単語が成り立つには、それら単語を含む言語体系を前提としなくてはならない。また、その言語体系を成り立たせるには、それを共通語とする、少なくとも二人以上の話者が必要である。
畢竟、「私は思っている」という状態が成り立つには、これだけ多くのものを前提とせざるを得ないわけだ。
ウィトゲンシュタインに倣って言い直せば、
「言葉あり、ゆえに我思う」
となるだろう。

(④に続く)


オススメ関連本・土屋賢二『ツチヤ教授の哲学講義――哲学で何がわかるか?』文春文庫


言葉という神が支配する②

2015-11-14 22:22:22 | 雑文
(①からの続き)

日韓の間の「歴史認識」の問題にも、言葉のあり方が関わってくる。
「歴史は正しく認識されねばならない」とは、多くの人の共通理解であると思う。特に韓国は、日本に対し「歴史を直視すべき」だと、よく言ってくる。
では、「正しい歴史認識」とは何か?
「日本は朝鮮を併合した」と記述したとする。
これは、間違った記述ではない。
しかし、正しさというのを、価値中立的、客観的であることだとすると、厳密にはこの記述は正しくない、ということになる。
それは、「日本」が主語であるからだ。
日本が主語であるということは、日本の側からの、日本の立場に立った記述だということになる。すると、どれだけ公正であろうと努めたとしても、少なからず主観の入り込む余地が生まれてしまう。
これはもちろん、「朝鮮は日本に併合された」と記述したとしても同じことである。
妥協策として、「両論併記」という手段があるが、二つの主観を並べても、それが融合して一つの客観となるわけではない以上、根本的な解決とはならない。
養老孟司と玄侑宗久が、対談本『脳と魂』の中で、「真に客観的なのは宗教だけだ」と話し合っていた。最初にそれを読んだときは、意味がよくわからなかった。だが、今ではよくわかる。
我々がこの世界を記述するというのは、自分自身、この世界の中にあって、少なからず自分という存在も含めて記述する、ということである。多かれ少なかれ、その記述の中に、自分という存在が入り込んでしまう。
徹底して客観的であろうとしたら、世界の外側に出て、そこから世界を眺めて記述するしかない。しかし、世界の外側に立つことが出来るのは、神だけである。神ならぬ我々人間が、そのような立ち位置を確立することなどできない。
だから、真に客観的なのは宗教(神)だけだ、ということになるのである。
日韓が歴史認識の問題でなかなか折り合うことができないのは、よく言われるように、感情的になりやすい問題であるからとか、外交カードとしても使われるから、というのも理由としてあるだろう。だが、それだけではなく、歴史を記述するときに、主観を完全に排除することができない、という点、人間は、世界の内側からしか世界を記述することができないという点が、ひとつの大きな原因となっているのだと思う。

先程、「愛」という言葉が出た。次は、その言葉の持つ力について。
あるテレビ番組に、「亭主関白会」とかいう名の、おじさんたちの私設団体が出演していた。その活動内容は、団体名に反して、「妻をいたわり、思いやる」ことを主目的としていた。
で、会の規則何ヶ条があったのだが、そのうちの一つが、「1日1回、妻に必ず愛してると言う」というものだった。出演していた会員が、「たとえ愛している、という気持ちがなくても言うんです」と説明していた。
これに対し、番組レギュラーのお笑い芸人が、「あかんやろ」とツッコんでいたのだが、いや、これはなかなか含蓄のある会則である。
普通、「愛してる」と言われて、まず、悪い気はしない。妻は少なからず嬉しくなるだろう。そして、その喜びを、夫に返そうとするはずだ。
何か良い事をしてもらえれば、夫も嬉しい。お互い気持ちよくなる。そのまま良い事の応酬が続いていけば、お互いが「愛してる」と、本気で実感できる関係が出来上がるだろう。
つまり、愛してなくても愛してると言うことで、本当に愛してるという感情に到達できるのである。
もちろん、いつ愛してるというか、にもよる。ケンカの真っ最中だとか、明らかにおかしなタイミングで言っても、意味がないだろうし、余りにも気持ちがこもってない言い方だと、逆効果になる恐れがある。だが、その点に注意さえしていれば、「愛していなくても愛してると言う」のは、極めて有効な行為なのである。
言葉が先にあって、後から感情が作られる。これは、いかに我々が言葉に縛られているか、ということを表している。
それから、今挙げたのは、言葉がプラスに働いたケースである。ということは、この働きが、マイナスに作用する場合もあるわけだ。現代では、むしろそちらの言葉の方が、活発に発せられているのかもしれない。学校裏サイトに「死ね」と書き込みをされたいじめられっ子が、本当に自殺してしまう、といったように。
言霊信仰は、あながちただの迷信ではない。
だからこそ、我々は言葉に敏感でなくてはならない。良い関係も、悪い関係も築きうる言葉。場合によっては、生死を左右する言葉。この言葉の力に無自覚な者が、今日も気軽に「死ね」と呟いている。

(③に続く)


オススメ関連本・石川九楊『筆蝕の構造――書くことの現象学』ちくま学芸文庫

言葉という神が支配する①

2015-11-13 21:03:56 | 雑文
とある落語家が、マクラで話していたのだが、「ヌメヌメ」という言葉を調べようと思って、辞書を索いた。そしたら、「ベトベトしているさま」と書かれており、それじゃあってんで今度は「ベトベト」を索いてみた。するとそこには「ヌメヌメしているさま」と記されていたという。
このような循環論法でなくても、言葉を定義することの困難は他にもある。
なんでもいいのだが、例えば「机」という言葉を調べてみよう。小生の手元にある、講談社の日本語大辞典には「勉強・事務などに使用する家具。木製・鋼製のものがおもで、甲板・幕板・脚などからなる」と書かれている。
実にわかりやすい、これで解決だ。そう思うだろうか。
だが、言葉を厳密に定義するためには、この説明文の中に用いられている「勉強」「事務」「など」「使用」「家具」「木製」「鋼製」「おも」「甲板」「幕板」「脚」という言葉の意味を定義せねばならない。それはそうだろう。説明文の中の単語がどのような意味であるか、がハッキリしなければ、その説明文を正確に理解することはできないのだから。
しかし、そうするとどうなるか。「勉強」を調べると「学問・仕事につとめ、励むこと。勉学」と書かれているし、「事務」を調べると「会社や役所などでおもに机の上でする、計算や書類を扱う仕事・業務」と書かれている。すると今度は「学問」「仕事」「つとめる」「励む」「勉学」「会社」「役所」「上」「する」「計算」「書類」「扱う」「業務」を調べねばならなくなるのである。
調べねばならない言葉は、ネズミ算式に増えてゆく。
つまり、いくら辞書を牽いても、言葉を厳密に理解することはできないのである。
言葉を説明するのに、言葉以外のものを用いればいい、と考えている人もいるかもしれない。
例えばりんご。A君が、「りんご」という言葉を説明するために、実物のりんご、赤くて丸い、甘酸っぱい果実を「はい」と差し出したとする。
これでりんごを説明したことになるのだろうか。
A君が差し出していたりんごが、「ふじ」だったとする。すると「王林」や「ジョナゴールド」や「サン津軽」は、りんごではないのか。A君が差し出した以外の、スーパーに置いてある、あるいは農家が収穫したばかりのふじは、りんごではないのか。また、過去に存在したふじ、未来に生産されるふじは、りんごとは言えないのか?
そして、A君が手にしているそれは、りんごの花が受粉して、実が育って熟したものだ。このまま食べずにおけば、やがて腐りだし、朽ち果てて土へと還るだろう。
さて、りんごは一体いつ、どの時点でりんごになり、どの時点でりんごではなくなるのか。
結局、「りんご」という言葉を説明するために、「りんごと呼ばれている物体」を用いる、というのは、「りんご」という言葉を部分的にしか説明し得ない、ということだ。
それに、言うまでもないことだが、「愛」とか「勇気」といった概念は、モノを使って説明することはできない。
「言葉は、言葉によってしか定義することはできない。ゆえに、言葉を厳密に定義することはできない」
しかし、「言葉を厳密に定義することはできない」にも関わらず、今、当論考を読んでいるあなたは、小生が何を述べているのかを、きちんと理解できていることと思う。主張の内容に首肯してくれるか否かは別として、文意は理解して頂けているはずだ。
普段も、会話したり文章を読んだりするのに、さほど支障は感じていないだろう。
言葉を厳密に定義できないのに?
我々は言葉を理解するのに、幅を持たせている。「ま、こっからここまでくらいがこの言葉の意味だわな」と。これは、言葉を厳密に定義できないことからくる無秩序なのだろうか。それはよくわからないが、この「幅がある」というのが、時代によって言葉の意味が変化したりといった、「言葉の活性化」に関わっている、とは言えるだろう。
で、「だいたいこっからここまで」という言葉の理解が、平均すればだいたい皆同じなので、会話が成立するし、文章も読めるのである。
だが、言葉の理解の仕方が、平均からズレてしまうこともあり、そこから誤解や諍いが生まれてしまうわけだ。あと、政治家がよくやる、揚げ足取りもね。
これは、言葉が不完全なものである、ということ、言葉の能力の限界を示しているのだろうか。おそらくは、そうではない。現実の方が、我々が使っている言葉よりもはるかに複雑で、うまく対応することができない、ということ、言葉それ自体の問題ではなく、我々の言語運営能力の問題なのではないだろうか。

(②に続く)


オススメ関連本・高島俊男『漢字と日本人』文春新書