田辺俊介の編集した『日本人は右傾化したのか データ分析で実像を読み解く』(勁草書房)を 時間をかけて読めば読むほど、彼の率いるグループは何者でどこに向かっているのか、不信をいだいてしまう。
第1章1節に田辺はつぎのように書く。
《一方「左派」と呼ばれる人たちの多くは、戦後初期の一時期を除けば、基本的にナショナリズムに否定的であった。・・・・・・そのように日本のナショナリズムをほぼ全否定する論者たちが、同時に「同じ国民」という理由で日本国内の格差を問題視したり、あるいは近隣諸国のナショナリズムには理解を示すなど、その姿勢に一貫性がないことも少なくない。》
田辺が、どうして、「姿勢に一貫性がない」と批判できるのか、私にはわからない。
「左派」とは、支配する支配される社会構造や、自分たちが良ければ善いという思考を否定するものである。対外国では、すなわち、国際的には、ナショナリズムは、自国中心主義として働き、国内的には、ナショナリズムが格差をおおい隠すものとして働くと、左派は批判しているのである。
ナショナリズムとは、個人が、国家あるいは民族に帰属先を持つことで自分のアイデンティティを持ち、帰属先にプライドを持つことによって自分のプライドを持つことである。これって、自己が確立していない病的人間である。自分がないのである。
田辺は「市民・政治的プライド」と「民族・文化的プライド」とに分けて善いナショナリズムがあるかのように装うが、そんなものはない。それぞれ、イタリアのファシズム、ドイツのナチズムに対応するだけである。
第2章2節に、齋藤僚介はつぎのように書く。
《従来から、さまざまな論者がナショナリズムや全体主義を不満や不安によって説明してきた。たとえば、フランクフルト学派の一人エーリッヒ・フロムによる著名な一冊『自由からの逃走』では、都市部の下層中産階級が、不満や不安によって、「自由」からナチズムに逃走したとしている。フロムの議論において想定されているのは、「近代化によって自由=孤独をもった個人」といった社会と個人の関係である。そのような社会的条件の上で、「ナチのイデオロギーと実践は、民衆のある一部の者に対しては、その性格的構造から発する欲望を満足させ、また支配や従属を楽しんではいないが、人生や、自分自身の決断や、その他一切のことに信頼を失ったひとびとに対しては、指導と方向とを与えた」。》
(フロムの書からの引用文の「指導と方向性」は原文では“direction and orientation”である。ここでの「指導」“direction”は、「規範の強制」あるいは「命令」の意味である。)
社会心理学者フロムは、ナチズムをもたらした背景を深く分析することの必要性を、『自由からの逃走』で、第2次世界大戦の最中に亡命先の米国で訴えたのである。確かに、その書でフロムは「都市部の下層中産階級」を異様に憎んでいるが、彼の根本思想は、近代化とは、ひとりひとりが自己を確立し、他人から命令で動かず、自分の意思で行動するということ、すなわち、自由になることだとするものである。ところが、それについていけない人間たちが世界のどこでも一定程度いる。フロムは「自由からの逃走」に いろいろなタイプがあることを分析している。
したがって、「不満や不安」がナチズムをひき起こしたと単純に言っているのではない。
現在の精神分析でいえば、健康な自己を確立できない人は、軽いか重いかの違いがあっても人格障害者である。べつに、本人が悪いわけでなく、その人がたまたま出会ってきた体験が、その人の自己の確立を阻害したのである。
トーマス・マンの著作を読むと、強い差別意識とエリート意識が彼の市民感情のなかに紛れ込んでいる。フロムが、『自由からの逃走』で断罪しているカルヴァンの「予定説」が、――人間は救われるものと救われないものに生まれながら分かれているとするドグマだが――トーマス・マンの「自由」を主張する市民感情のなかに紛れ込んでいるのである。「救われないもの」とされた者が、「千年王国」のメシアを求め、偽メシアにだまされることは、いつでもどこでも起きることなのだ。
どうも、田辺の率いる社会学者集団はうさん臭い。