M. I. フィンリーは、民主政(democracy)とは人民(デーモス demos)による政治であると、『民主主義 古代と現代』(講談社学術文庫)で書く。私も、人民の声にもとづく政治がおこなわれて当然である、と思う。
ところが、横浜市では、各社のアンケート調査で、圧倒的にカジノの誘致に反対であるというのに、横浜市議会でカジノ誘致の準備が進められている。昨年の市長選や市議会選では、カジノの誘致は白紙と言いながら、選挙が終わると、議会の多数派の自民党と公明党はカジノ誘致に走り出したからだ。
現在の日本の「代表民主制」は機能していないようだ。選ばれた代表が、「人民の声」にしたがわないというというのは、「民主政」の理念に背いているように思える。
しかし、このことをもって、「民主主義の限界」というのはおかしい。それよりも、学校教育やメディアが「エリート主義」に染まっていて、選ばれた代表、政治家が「人民の声」を無視し、自分の利益のために走るからだ、と思う。
人が自分の利益に走るのは、人間の「さが」だと思う。政治家だけではない。
市中では、新型コロナウイルスがこれから蔓延して物資の流通がとまるとして、ティッシュペーパーやトイレットペッパーや食料の買いだめに走っている。「人民」も自分の利益に走る。
しかし、この人間の「さが」は、道徳や倫理の権威にだまされない人間の「賢さ」をも示している。みんなは、3月いっぱい学校を閉鎖するという安倍晋三が、新型コロナウイルス流行を抑止できるとは、思っていない。だから、買いだめに走るのだ。
昨年の8月22日の朝日新聞の《政治季評》に、豊永郁子が『トランプ氏を支持したのは「違い」を嫌う権威主義者』と書いていたが、やっぱり、これは間違った分析だ。頭のいい人やきれいごとを言う人に不信感をもっている人々に、自分の利益を優先しようとトランプは訴えたから、選挙に勝ったのだ。
大統領の言うこと、首相の言うこと、政治家の言うことを、じつは、多くの人は信用していない。
トランプと闘うのは左のバーニーが良い。中道のバイデンではダメだ。
人民は、中道を唱える政治家に「エリート主義」の匂いを感じているのだ。
新聞が「ポピュリズム」を批判するのはおかしい、と感じる人々は賢いのだ。政治家が大衆の声に耳を傾けるのは誤りではない。新聞はその政治家がどんなことをしたのか、しようとしているのかを批判すべきである。
人間は自分の利益に走るだけ、と私は思わない。多くの人に、他人と「共感する能力」があると思う。それをフィンリーは「共同体」だと考え、フロムやバートランドは「連帯 solidarity」と言う。民主政を機能させるには、みんなを、「共感する能力」の存在に絶望させないことだ。
安倍晋三は、民間の検査会社に新型コロナウイルス検査の試薬を配布するという。じつは試薬の配布は国立感染症研究所が検査を縛ることになる。これでは、試薬の量が検査数を縛る。現実には、日本の国立感染症研究所は諸外国や国内の研究所よりレベルが高いわけではない。外国の検査キットや大阪大学のベンチャーや理化学研究所の検査キットを使ってもよいはずだ。
市中で買いだめが起きたのは、安倍晋三のウソがばれてしまったからだ。政権がウソをつけば、それだけ、人々は不信を強め、自分の利益に走るようになる。人民はバカではない。
もちろん、私は、だれかを犠牲にして自分の利益のために走ることを、良いと思っていないが。