猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

右翼の総大将はプラトンである

2020-02-07 23:46:06 | 思想

田辺俊介は、『日本人は右傾化したのか』(勁草書房)で、右傾化とはナショナリズムの強まりと考えている。もちろん、それは彼だけでなく、彼が引用している社会学者たちもそういう考えである。

しかし、伝統的な「右翼」と「左翼」との区別は、支配する支配されるという社会構造を維持しようとすれば右翼あるいは保守、壊そうとすれば左翼あるいは革新である。日本は、戦後も、ずっと右翼的価値観の者たちが社会の実権を握っており、左翼的な価値観が多数派になっていない。

たとえば、小・中学校の国語教育で敬語の使い方を教えている。この敬語は身分制社会での言語用法にすぎない。道徳教育の実施がなくても、学校教育を通して日々、右翼思想の持ち主が再生産されているのである。社会科では、「権利と義務」があたかも民主制社会の基本のように教えられている。「権利と義務」は、支配者と被支配者(臣民)との関係で生じる契約である。

そして、「法の下の平等」を保障するなら、象徴天皇といえども天皇制を廃止すべきである。血のつながりにもとづく天皇制なら、平等を基本とする民主制社会にあってはならない。

右翼思想の最たるものは、プラトン主義である。プラトンの『国家』(Πολιτεία)を読めば、プラトンがいかに右翼であるか、わかる。彼は「自由」とか「平等」とかは、とんでもない思い込みであると考えている。

『国家』の第8巻で「国制(πολιτείαν)」を5つに分類し、良いのはただ一つ、哲人の支配で、あとは4つの悪い「国制」であるとプラトンは言う。

ここで「国制」は藤沢玲夫の訳語で、πολιτείανは「国の政治体制」のことである。

また、「哲人の支配」は私が名付けただけで、プラトンは「王制(βασιλεία)」「優秀者支配制(ἀριστοκρατία)」と呼んでいる。日本語名は藤沢がそう訳語をあてだけで、プラトンは、支配者がひとりか複数かを区別するために、呼び名を変えただけである。

この国制では、教養あるもの(哲学者)が国民を支配すると同時に、国民全体が「節制(σωφροσύνη)」の人であることをいう。「節制」とは、質実剛健の精神を持ち、欲望を制御できることをいう。すなわち、享楽的でないことをいう。支配者に要求するのではなく、プラトンは支配者を含む国民全体に要求するのである。

4つの悪い「国制」を、プラトンがましと考えるものから、順に並べると、つぎのようになる。
 (1)名誉支配制(τιμοκρατία)
 (2)寡頭制(ὀλιγαρχία)
 (3)民主制(δημοκρατία)
 (4)僭主独裁性(τυραννίς、τυραννουμένη πόλις)

そして、哲人支配制から、「名誉支配制」、「寡頭制」、「民主制」、「僭主独裁制」と、順に、しだいに国制が悪い国制に変化していくというのがプラントンの理論である。進歩ではなく、歴史は退歩していくと思い込んでいるのだ。

プラトンの言う「名誉支配制」は、クレタやスパルタふうの国制で、勝利と名誉を愛する国制のことである。現代ふうにいうと、「軍国主義体制」になる。

たとえば、「寡頭制」では、金持ちであることが「善」であり、金持ちがもっと金持ちになろうとし、奪われぱっなしの貧乏人が「寡頭制」を倒して「民主制」にしようとする、とプラトンは考える。

では、プラトンがなぜ「民主制」をもっとも悪い国制とするのか。「民主制」では、みんなが「自由」になるからである。好きなことを言って、好きなことができるからである。理想の「節制」から、みんなが大きく外れてしまうからだ。

この自由放任の国制で、「すべての者が金を儲けることに努めるとしたら、たいていの場合、生まれつき最もきちんとした性格の人々が最も金持ちになる」。すると、金持ちからお金を奪おうとする者たちと、奪われないとする金持ちのあいだに争いが生じる。奪おうとする者のリーダーが私兵を抱えるようになり、独裁者になる。

プラトンは、このようにして、支配する支配される社会構造をなくせないと考え、「民主制」は混乱の源とする。すなわち、これが、「右翼」や「保守」の正体である。

プラトンは、植松聖や安倍晋三と同じく、自分だけが社会全体のことを考え、正しいのだと思い込んでいる。

アダムとイブからダビデまで長谷川修一の『謎解き聖書物語』

2020-02-07 00:47:42 | 聖書物語

長谷川修一の『謎解き聖書物語』(ちくまプリマー新書)が面白い。
ここで「聖書」といっているのは、「旧約聖書」のもとになっているユダヤ人の「聖書」のことである。2000年以上のまえに、ヘブライ語やアラム語やギリシア語で書かれた。

長谷川は、考古学の立場から、この「聖書」の中身が史実でないことを、『聖書考古学 遺跡が語る史実』(中公新書)、『旧約聖書の謎 隠されたメッセージ』(中公新書)で指摘してきた。

今回は、『創世記』から話題を4つ選び、『サムエル記』から話題を1つ選び、オリエント史の観点から、言語学的視点から、また、「ヘブライ語聖書」と「70人訳ギリシア語聖書(Septuaginta)」の比較から、史実としてはどうなのか、また、どういうメッセージを汲みとればよいのか、を書いている。

第1章「アダムとイブ―人類誕生の謎」では、長谷川は、「善悪を知る樹の実」を食べる寓話を「自由をあやまって用いたとき、人はその責任をとらなければならない」と解釈している。

これには納得いかない。同時代のプラトンの『国家』には「自由」という概念があるが、旧約聖書にはまず「自由」という概念がない。それよりも、「善悪」を倫理的に解釈するのではなく、「こころよい」「きぶんがわるい」という個としての感情と解釈すべきであり、この寓話は人間の感情を肯定していると解釈した方が良いと思う。

長谷川は、この章でまた、ヘブライ語の定冠詞「ハ(ה)」について論じていて、定冠詞がつかない「アーダーム(אדם)」は人間一般をさし、定冠詞がつくと特定の人間「アダム」をさす、と指摘する。いままで、私はこのことを意識していなかった。

たしかに、口語訳、新共同訳、聖書協会共同訳は「人」か「アダム」かを意識して訳し分けている。しかし、その訳し分けは、もう少し、複雑だ。

谷川政美の『旧約聖書ヘブライ語独習』(キリスト新聞社)を読み直すと、定冠詞「ハ」は固有名詞にはつかず、普通名詞につくと、(1)広く知られている事物、(2)呼びかけ、(3)不特定の人、(4)名詞を副詞に変える、などの働きがある、としている。したがって、英語の定冠詞 “the”の用法と かなり異なる。

したがって、ヘブライ語聖書での定冠詞「ハ(ה)」がついた「האדם」は、『創世記』の2章から4章のぞいて、いわゆる「アダム」をさしていない。「アダム」が「最初の人間」という意味で使われるようになるのは、新約聖書になってからである。

第4章「出エジプト―それは本当に起こったのか?」では、「出エジプト」だけでなく、統一イスラエルがあったのかを扱っている。

長谷川は、以前、『歴史学者と読む高校世界史 教科書記述の舞台裏』(勁草書房)に「ヘブライ人の国王ダビデとソロモンの実在は疑わしい」と書いていた。本書ではそういう明確な表現になっていないが、統一イスラエルの存在を否定することで、それをほのめかしている。

長谷川は、西アジアの西の端、パレスチナの北にイスラエル王国があり、南にユダ王国があったまでを史実と考えている。

ヘブライ語聖書によれば、統一イスラエルが、サウル、ダビデ、ソロモンの王たちのもとにあり、つぎの王 ヤロブアムのとき、北のイスラエル王国と南のユダ王国とに分かれたとある。確かに、この記述は奇妙である。

というのは、聖書によればつぎのようであるからだ。
ダビデは南の出身で、全体の中心から南に外れたヘブロンに統一イスラエルの都を築く。分裂したあと、北の広くて肥沃な土地のイスラエル王国に10部族が住み、南の狭くて荒れ野のユダ王国に 2部族が住む。国力が丸きっり違う。なのに、ユダ国の王はダビデの直系であり、イスラエル国の王は反乱者となっている。

長谷川は、「イスラエル国がアッシリアにほろぼされたとき、北の人びとが南に逃げ、ユダ国は、部族の融和のため、統一イスラエルがあって繁栄していたという、栄光の過去をつくらざるをえなかった」と考える。

第5章「ダビデとゴリアテ―永遠のヒーロー誕生」では、ダビデとゴリアテの伝承は他の部分と比べて新しい、また、巨人ゴリアテを倒すに使ったダビデの「石投げひも」は古代では標準の兵器であった、と指摘する。長谷川の考古学者、オリエント史学者らしさが本書に にじんでいる。

ところで、ヘブライ語聖書(旧約聖書)は、史実でないだけでなく、倫理的な「教え」でもない。

長谷川が、ユダヤ人がこの聖書をもつにいたった理由を、バビロン捕囚から帰還したユダヤ人が自己のアイデンティティを持つ必要があったからと書いている。私もそう思う。とくに、アレクサンダー大王にもたらされた、西アジア(オリエント)と地中海沿岸のグローバリゼーションのため、民族としてのアイデンティティをより必要としたのだと思う。

ヘブライ語聖書は、まさに、自分たちの民族としての由来を書くため、いろいろな伝承を集めて創作した一種の偽書(フィクション)である。
ドイツ語では、歴史も物語もGeschichteである。それに、日本だって、日本書記や古事記は史実ではない。だから、歴史をでっちあげるのは古代では普通のことであった。
ヘブライ語聖書は不必要に長い。当時は、長大な歴史書を持つことが民族の誇りとして だいじだったのであろう。

古代ユダヤ人は倫理的な考え方はせず、個を優先するか集団の秩序や掟を優先するかの葛藤があるだけである。モーセの五書の中で『創世記』は、とくに、英雄譚として、個を前面に出して書かれている、と思う。『サムエル記』で描かれているダビデ像はスケベでずるい悪漢である。強いから英雄なのである。

これが、ヘブライ語(旧約聖書)を「史実」でもなく、「教え」でなく、文学作品として読むべき理由である。

[補足]2月7日にヘブライ語の定冠詞「ハ」の記述を訂正した。