きのう2月17日、津久井やまゆり園殺傷事件裁判の、検察の論告求刑が、横浜地裁であった。あす19日に、弁護側の弁護側の最終弁論があり、結審する。判決は3月16日午後1時半から言い渡されるとのことである。
昨年の9月30日に地裁が発表した公判日程では、26回の公判がある予定であった。ところが、これまでに4回の公判キャンセルがあり、そして、あす以降の公判はキャンセルされ、第17回の公判で判決が下される。
これは、検察側、弁護側、地裁側がグルになって猿芝居をうっていたからだ。はじめから、3者で争点を被告の刑事責任能力の有無とに絞っている。ところが、被告が自分はアタマがおかしくない、責任能力があると、言いだしため、この猿芝居が続行できなくなった。それで、26回の公判が17回になったのだ。
裁判員裁判を短期間で円滑にすすめるために、検察側、弁護側、地裁側が事前に争点整理と称して談合を行うが、これは裁判員裁判の目的に反している。裁判では検察と弁護側が争うことで意外な展開が生じ、それを裁判員が市民感覚で有罪・無罪を判断するから意味がある。新しい共犯者が見いだされるかもしれない。
被告が言うように、今回は被告に責任能力があることは明白だ。じつは、「責任能力」という言葉自体はおかしくて、ほんとうは、日本の刑法第39条に該当しないということである。
日本国刑法 第39条 「1.心神喪失者の行為は、罰しない。2.心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。」
重度障害者への差別、憎悪は、大麻を週に何回か吸ったことでは生じるものではない。
殺人は殺人である。行為で裁かれなければならない。日本国刑法での殺人にたいする刑罰の選択範囲は、非常に広いのだ。
日本国刑法 第199条 「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する。」
したがって、被告は26人も人を殺したという事実を認めているのだから、弁護側は、あくまで、この量刑で争わなければならない。
すると弁護側が主張すべきことは、次の2点であった。
(1)社会は、とくに、津久井やまゆり園は、被告の犯行を防げたのではないか。防がなかった社会、とくに、津久井やまゆり学園に落ち度があったのであり、その分だけ、被告の罪を相殺しないといけない。
(2)被告が暴力的な思想の持ち主で憎悪の対象をせん滅しようとしたといえ、社会が被告を社会からせん滅することは、被告と同じ暴力をふるうことになり、死刑の選択はやめるべきである。
今回、津久井やまゆり園の監視カメラは外部に向かってだけあり、内部における虐待を監視するようになっていなかった。
また、内部の施設利用者が外部に生命の危険を連絡する手立てがなかった。
また、被告から重度障害者殺害の計画を聞いた園の職員は、上司にそれを告げたのにもかかわらず対策をとらなかった。
また、被告といっしょに大麻を吸いながら、殺害計画を聞いた被告の友人たちの罪が問われていない。
被告が重度障害者を殺すべきだという手紙を国会議長に渡した段階で、頭がおかしいとして、精神科医に責任を押し付け、刑事事件として対策を検討しなかった。
すなわち、被告の大量殺傷を防げたかもしれないポイントがいっぱいあるのだ。裁判員裁判の結果、それでも、死刑になるかもしれない。しかし、弁護人が防げたかもしれないポイントを指摘し、改善を訴えなければ、もっと最悪の事件が起きるかもしれない。
また、「汝、ひとを殺すなかれ」という。合法的な殺人があるという考えは野蛮なのだ。死刑は廃止すべきである。罪をゆるす必要はないが、復讐心から被告を殺せという大合唱は避けたい。それは、憎しみから人を殺すという、人の心の闇を助長するからである。今回は、裁判員を説得できないとしても、死刑廃止を世の中に弁護側は訴えるべきである。
以上の2つの視点から、今回の弁護人は弁護人としての責任を果たさなかったと思う。