田辺俊介の編集した『日本人は右傾化したのか』(勁草書房)はどこかおかしいと感じていたが、ようやくわかった。そもそも「右翼」「保守」の定義がおかしいのである。
第10章で松谷満はつぎのように書く。
《 『保守』「右」とは何か、……、社会意識、政治意識という観点からすると、おおよそ現状や伝統の維持、個人よりも国家を重視すると立場をさす。》
《 政治的価値対立軸は、……、経済的には、「小さな政府」を志向し、文化的には、権威や秩序、伝統を重視するのが、保守、右派の立場とされる。》
こういう定義自体が、私のような左翼の立場からみると、見当違いである。
「右翼」とは2つの側面からなる。1つは、人はそれぞれ差異があるから平等である必要がないとする立場である。もう1つは、人が人を支配することは当然であるとする立場である。
「左翼」は、これに対し、人はそれぞれ個性があるが、社会的政治的に平等であり、人が人を支配することがあってはならないとするものである。
「保守」とは、平等ではなく、人が人を支配する社会を守ろうとすることをいう。「革新」は、そのような社会を壊そうとすることをいう。
第10章では、松谷は、日本人を、年齢的な区分でなく、歴史的な文脈でつぎのように区分し、これを世代と呼ぶ。
• 平成世代(1990年以降の生まれ)
• 氷河期世代(1969年から1989年生まれ)
• 安定期世代(1954年~1968年生まれ)
• 団塊世代(1944年~1953年生まれ)
• 戦後世代(1936年~1943年生まれ)
私は、年齢ではなく、「歴史的文脈」で日本人を区切る考え方は適切だと思う。人は人格形成期の体験(教育を含む)で価値観が決まり、それ以降、価値観や政治的立場などが大きくは変動しないと思うからである。
ただ、命名は適切ではない。
「戦後世代」は「軍国主義少年少女世代」である。私の出た研究室(物理学)では、私72歳を最年少として、いまだに老人たちが1年に1度会うが、80歳を過ぎている人たちに聞くと、思わず自然にでてくる歌はすべて軍歌であるという。軍国主義から民主主義に転向できたのは限られた人々である。この世代が右翼的であることは、少しも不思議ではない。
「安定期世代」は「日本主義復興世代」と、「平成世代」は「しらけ世代」と言ったほうが適切だろう。
さて、本書は、「平成世代(しらけ世代)」すなわち若者世代が、「氷河期世代」より、安倍晋三や自民党を支持すると言う。そして、その要因が何かは分からないと言う。
若者世代の安倍支持、自民党支持は原発支持と相関が高いが、原発推進のために若者世代が安倍や自民党を支持しているのではない。
私が思うに、人は、どうすれば得かという判断で行動し、判断は学習(体験の記憶)にもとづく。ヒトの脳はイヌやネコと同じなのだ。
現代人にとって最大の学習は学校教育だが、ついで、親のみじめな人生から学ぶことが多い。学校教育をつうじて人の能力は平等でない、競争に負けたものはクズだという価値観を植え付けられ、親たちが理想を求めたので貧乏をしていると子どもたちが学習するなら、権力に寄り添って生きのびるしかないと若者世代が考えるのはしかたがないのではないか。
すなわち、若者世代のなかで起きているのは、あきらめのなかで、それでも、生き延びようともがいていることだ。右翼的な言動をすれば、生き延びることができると考えているのだ。
松谷は、私とちがって、若者世代は権威主義的であり、それは、次の理由で生じたと考える。
《 高度成長期以降の世代は、比較的余裕のある家庭に育った者が多く、年長世代から多大な恩恵を受けてきた。現在のような不安定な社会―経済状況にあっては、その恩恵を受けたいという経験が大きいほど、権威を信頼し、それに従属して切り抜けようとするのではないか。》
松谷が思うのと異なり、若者世代は別に権威主義的ではない。彼らに先立つ世代が権力に負けたと思い、あきらめのなかで生きのびを図っているのだ。
結局、田辺が率いるグループは、おばっちゃま、おじょうさまが「社会科学あそび」をやっているにすぎず、支配される者や奪われる者の怒りを受け止めず、見当違いの分析をしている。
「社会科学者」たちに言いたい。
学校教育でどのような洗脳が行われているかの実態調査をすべきだろう。学校教育で全人格否定を受けていまだに苦しむ人びとを調査すべきだろう。そして、不幸を再生産する社会にalternativeの思想、すなわち、左翼思想を吹き込むべきだろう。
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