田川建三は『キリスト教思想への招待』(勁草書房)で、初期キリスト教徒が共同体生活を送っていなかったという。ただ、病人や貧民を助ける活動はしていたという。これは、たんに共同体とか何かの田川建三の定義が、ちょっと私と違っているから、だと思う。
助けあいの精神「隣人愛」があれば、共同体と呼んでもいいのではないか。
カール・カウツキーは、『中世の共産主義』(法政大学出版局)で、共同体運動は昔からたくさんあったという。ただ、それを持続するのがむずかしいという。
カウツキーは、共同体を富の共有と考える。共同体運動は、支配階級からみれば自分たちの地位を壊す危険な運動と見える。キリスト教には昔から共同体願望があったが、教会の権力者からは共同体思想は異端とみなされ、弾圧された。また、共同体運動が成功しても、経済的に豊かになると、その富を独り占めしたいと思う人が内部にあらわれ、自然と崩壊した。
カウツキーは、共同体運動を共産主義運動のさきがけ(Vorläufer)と考える。昔の共同体運動のかけているものは、政治性の欠如とみる。彼は、また、生産手段の共有の欠如も違いとして挙げる。しかし、修道院活動、初期のツンフト(Die Zunft)ではささやかな生産手段だが、その共有もあったともいえるのではないか。
私は、たがいに競争しない、たがいに分けあう、たがいに助け合うなら、共同体と考えていいのではないかと思う。
カウツキーのいう「政治性の欠如」は、階級闘争までいかないことのようだが、たがいに競争しない、たがいに分けあう、たがいに助け合うだけの共同体運動もあっていいのではないか。権力志向がなければ、閉鎖的であっても、社会に実害がないと思う。
私の妻は、近くの友達から手作りの草もち、ピザ、チーズケーキなどを絶えずもらっている。私もいっしょに食べさせてもらっている。食べ物を分け合う、これでいいのではないか。私たちは集合住宅の住人である。
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