新型コロナ対策で、時短要請で協力金の払い方をめぐって、不公平だという声が、テレビなどで取り上げられている。しかし、なんのために協力金を払うのか、何が不公平か、じっくりと考える必要がある。
不公平だという声は、どうも、新型コロナ対策で、本来儲けることができた分の損失を弁償するのが、当然だという考えからくるのだと思われる。しかし、これは、対策に直接協力して、労働時間が長くなったから、その労働時間の増加に合わせて賃金を上積みせよというのとは、本質的に異なる。
新型コロナのため、みんな、大なり小なり収入が減っている。新型コロナ「対策」による損失を正確に評価することはむずかしい。
新型コロナ対策では、ワクチン接種が行き渡らない限り、人と人との接触を抑えないと、感染の広がりを防げない。したがって、爆発的感染拡大の危険があるとき、不要不急の外出をしない、飲食店で会食をしない、という要請を個人にせざるを得ない。日々の新規感染者数が小さければ、そのような要請は不要だが、新規感染者数が医療体制を圧迫し、治療方法の確立している他の病気の患者の命を脅かすようになれば、新規感染者数を抑えるための行動規制をせざるを得ない。
そのために緊急事態宣言がある。
新型コロナ対策で本来儲けることができた分を公平に保障することは、もともと無理な要求ではないか。
すると、「協力金」というよりも、新型コロナ感染で経済的に困窮している人たちを救済するのが、まず最初にすべきことではないか。
緊急事態の新型コロナ対策は、私有財産を増やすという「自由」に一定の制約をかけるのはやむを得ない。この要請では、お金儲けをしていけないとまでは言っていない。商売の仕方を変えても良いわけだ、テイクアウトをやってもよいし、弁当を配達しても良いわけだ。
したがって、経済的困窮者が優先され、大規模事業者があと回しになったことは政治的には間違いでない。緊急の困窮者救済では、一律支給はやむを得ないと思う。大規模事業者は、「協力金」ではなく、別に、事業継続のための貸し付けという形で救済していくしかない。
「損得」という観点から叫ばれる「不公平」の解消は、いま、生きていけないという「困窮」の救済のあとに回しにすべきだし、「損得」からくる「不公平」を「公平」に裁くことはもともと無理である。
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