豊永郁子が昨年8月22日の朝日新聞《政治季評》で、ドナルド・トランプの支持を説明するものは「権威主義」だと書いていた。田辺俊介らの社会学者は、『日本人は右傾化したのか』(勁草書房)で、若者は右傾化したとは言えないが、「権威主義」になっていると書く。
「権威主義」とは まさかと思っていたが、どうもそうではないようだ。ここでの「権威主義」は『自由からの逃走』でエーリッヒ・フロムのいう意味ではなく、田辺俊介らのいう「この複雑な世の中で何をなすべきかを知る一番良い方法は、指導者や専門家に頼ることである」という傾向である。
このような傾向を積極的に政治に利用する為政者を、M. I. フィンリーを「エリート主義」と呼ぶ。民主主義は壊そうとする者やその太鼓たたきは、専門知をもって、エリートによる国民支配を正当化する。
新型コロナウイルス対策で政府が、専門家が何かをいうと真にうける人がいる。もちろん、政府がいうのだろうから、ウソだろうと思う人もいる。しかし、メディアの多くが政府批判をしないので、多くの人が、専門家たちを抱え込んでいる政府の言うことを疑うと「非国民」と呼ばれるのかと恐れ、口を閉じる。
「クラスター」「パンデミック」「PCR検査」という言葉を使えば、よくわからないから、専門家に任すしかないと思う。図をつかって、「ここ1,2週間が勝負だから、集まってはいけない」と言われると、素直に信じる。「医療体制が崩壊するといけないから自宅に閉じこもる」と言われると、素直に信じる。
「クラスター」とは「集まり」のことである。感染者が動き回ることで、新型コロナウイルスの感染があちこちに離れてポコポコでおき、それが周りに大量の感染を引き起こすことにすぎない。まだ、感染が蔓延していない状態をいう。
「パンデミック」とは世界的流行のことである。国境での検疫では感染を防げない状態をいう。すでに、世界的に流行しているが、WHOが「パンデミック」と言わないから、メディアは「パンデミック」と言わないだけである。
「PCR検査」とはPCRという医療機器を使ってから、シーケンサーまたは試薬をつかって検査する方法のことにすぎない。PCRはDNAやRNAという遺伝子を何万倍にもする標準の医療機器で、国立感染症研究所や地方衛生研究所や大学でも使っている。そして、重要なことだが、この機器は民間の検査機関のほうが多数もっており、検査の実績もある。また、シーケンサーは塩基配列を自動的に決める機器で、これも標準で買ってくることができ、PCRと同じく、どこでももっている。塩基配列を決める方法は確定検査と言われる。
国立感染症研究所や大学は研究機関であって、検査機関ではない。民間にまかさないところが、国民をバカにした「エリート主義」の証拠だ。ほぼ世界的流行と言われる状況で、新型コロナウイルスの検査を自由化していないのは不思議、という直観は正常な反応である。
PCR機器があっても検査することに自体に、厚生労働省の許可が必要なのだ。増やされたRNAが新型コロナウイルスかどうかを判定する試薬は国立感染症研究所が提供するものを使わないといけないという縛りが行われている。しかも、陽性と判定されたものを国立感染症研究所でシーケンサーを使って塩基配列を決定し、確定検査となる。
これは大事なことだが、検査を自由化するということは、国立感染症研究所の試薬を使わないで、他から買ってきて検査をすることをいう。また、新型コロナウイルスの塩基配列は世界中の研究所から公表されているから、シーケンサーを使えば、試薬は不要である。
検査を自由化しないと、国立感染症研究所の試薬が国内で独占状態になり、無競争のため、その信頼性が低いままになる。国立感染症研究所以外が、シーケンサーを使って、確定検査をすれば、試薬の信頼性が明らかにされる。厚労省と国立感染症研究所が検査の自由化に反対するはずだ。
国立感染研究所は、厚労省や政治家に左右されず、感染の実態調査や、強い感染力と急性肺炎症のメカニズムのまっとうな研究に力をそそぐべきでないか、と思う。検査を自由化したほうが研究に集中できる。
一般に専門家は自分の権益を無意識に守る。国民は、「エリート主義」にだまされないために、自分の直観を信じ、専門家に説明を求めないといけない。
新型コロナウイルスの検査が十分に行われていないのに、「ここ1,2週間が勝負だから」と専門家たちがどうしてわかるのか、何も根拠ない。この「1,2週間」は、感染してから発症するまでの期間である。単にそれでだけで、それ以上の根拠はない。「1,2週間」しても感染数は減らないから、また、「ここ1,2週間が勝負だから」と言って、ずるずると、「集まらない」ように言うしかない。
専門家たちは、まず感染の実態調査をすべきである。そのために、国立感染所研究所と特定企業の癒着を守るのではなく、検査の自由化が必要である。
専門家は1か月で新型コロナウイルスが抑え込まれるとみていない。世界中のみんなが5月になっても収束すると思っていない。
すると、流行が続くなかで、医療体制が崩壊せず、社会的経済的活動が継続できるための知恵を専門家たちは出さないといけない。そのためには、感染のメカニズムの信頼できる知識がいる。それをもちわせていない専門家たちが集まる政府の専門家対策会議とはなんなのだ。
いっぱんに、有識者会議とか専門家会議とかは、現場をすでに離れた管理者が集まって、役人の作った案を承認する儀式にすぎない。ニセ専門家が集まるだけだ。
患者の診断と治療を行わない医療体制は、崩壊しなくても、すでに医療体制と言えない。専門家たちが何も具体的な指針を出せないのは、権益にからめとられているのではないか。
国民が専門家たちに疑問をぶつけ、常識的な行動をとるのが健全な民主主義である。
クルーズ船に失敗した安倍晋三が、全国の学校を3月まで閉じるといっても、単なる思いつきで、国の対策でもなんでもない。国にとってお金がかからないからだけである。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます