きょうの朝日新聞で、石川尚文の書評『ナッジ!? 自由でおせっかいなリバタリアン・パターナリズム』(勁草書房)が目を引いた。
「ナッジ (Nudge)」とは、心理操作によって人の行動に影響を与える、すなわち、誘導によって人を支配することである。評者の石川は「誘導される気持ち悪さ」を感じると言う。本書はその「気持ち悪さ」を「主に法哲学の視点から解きほぐす」と言う。
歯に物が挟まったような表現だが、本書は、「ナッジ」とはとんでもないことだ、と言いたいのではないか、と思う。
「ナッジ」は「行動経済学の知見」がもとになるという。
私がまだ会社で現役だったころ、IBMのワトソン研究所に、行動経済学の研究者がいた。彼は、損得がからむ日常の行動が合理的判断からどうズレるかの実験を行っていた。合理的判断とは、確率的現象において利益の期待値が最大になる選択をとる、ということである。彼の実験によれば、損になることを人は過大に恐れ、偏った行動を選択し、確率的には損をしていくという。人が非合理的な判断をするところで、企業が合理的判断をすれば、大きな利益をあげられるという。
彼は、リーマンショックでアメリカが金融危機におちいった最中に、IBMをやめ、モルガン銀行に金融工学の第一人者として転職した。
「ナッジ」は、ご褒美での誘導(positive reinforcement)や なんとなくの ほのめかし(indirect suggestions)で心理操作をすることをいう。これは言葉を新たにしただけである。昔からあることである。
フロイトの精神分析が出てくる以前の、いまから100年以上も前のことだが、人は非合理的な生き物だとする「ポストモダン」の流れの中で、人の心理を操作することが流行した。19世紀の終わりから、「大衆」が社会の前面に躍り出たことと関係する。
1つの流れは、商品を大衆に売り込むための心理操作、広告への応用である。
私の現役時代も電通とか博報堂の営業員が、トクトクと、広告がいかに大衆の心理を操作できるか、自慢していた。今でも変わらないだろう。ただ、テレビからネットに商品広告の主戦場が移った現在、電通の寡占状態が崩れ、電通は政権や自民党を新たな顧客にしようとしている。自民党の選挙ポスターや首相のパフォーマンスを電通が演出している。
もう1つの流れは政治だが、20世紀初頭に、はやくも心理操作の重要性に気づいた男がいたといわれる。アドルフ・ヒトラーである。第1次世界大戦前、彼はウィーンの図書館で心理操作の本を読みふけったという。ヒトラーが具体的に使ったテクニックを私は知らないが、ドイツの政治で、言葉によって大衆の心を操作したのであろう。
斎藤環も『「社会的うつ病」の治し方』(新潮選書)で、現代社会には「操作主義」が蔓延しているという。これが、治りにくい「うつ」を引き起こしているという。
ここで、評者の石川がいう「パターナリズム」と、斎藤のいう「パターナリズム」に違いがある。
石川は書く。
〈結果としての本人の利益を重んじるパターナリズム(父権的温情主義とも訳される)〉。(注:「パター」はギリシア語やラテン語の父に語源をもつ。)
斎藤はつぎのように書いている。
〈私が心配しているのは、こういう風潮が精神医学に「パターナリズムの復権」をもたらすのではないか、と言うことです。簡単に言えば、精神科医が病気を治す立場を踏み越えて、人の生き方にまで口を出しはじめるのではないか、と憂えているのです。〉
なんとなくの ほのめかしも「パターナリズム」も明確に人を支配しようという意図がある。許されることではない。
人の心は、言葉だけで できているのではない。言葉に支配されない自己と言葉に支配される自己の間に葛藤がうまれ、「うつ」になるのだ。
「不登校」「引きこもり」「うつ」になる人たちには、ナッジに支配されない自己があるのだ。健全なのだ。
評者の石川は、新型コロナ騒動において、「控えめな呼びかけ」としてのナッジが政府や専門家会議にみられた、という。私からみると、そこに「脅かし」もあった。事実に基づかない煽りもあった。
新型コロナ以前に安倍晋三がやってきたことは、昔ながらの「ニンジンとムチ」、すなわち、positive and negative reinforcementで、人を支配しようとする。そして、新型コロナ後にも、コロナ景気対策として、補正予算で使途の自由な巨額の予備費を「ニンジン」として役人と国民の前にぶら下げる。
日本の政府には、専門家には、「自分が正しい」という うぬぼれがあって、大衆を見くだし、心と行動を操作しようとする。「戦後民主主義」の生き残り私は、この心理操作に屈せず、「うつ」にならず、新型コロナ騒動後も生き残るのだ。
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