猫じじいのブログ

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育鵬社の中学教科書公民の「平等権」の記述はまちがっている

2021-06-03 21:54:03 | 思想


先週、「自由権」で、育鵬社の公民の中学教科書は、「表現の自由」を取り上げ、「インタネット」や「デモ行進」で自分の意志を表示する自由を教えているのに、東京書籍の公民の中学教科書がなぜか「表現の自由」すら取り上げていないことを指摘した。

いっぽう、「平等権」では育鵬社の腰が引けている。育鵬社の教科書は「平等」の行きすぎの批判ばかりが目立つ。「法の下の平等」を「法」が「平等」の範囲を制限できることかのような記述になっている。

育鵬社では、つぎのようにある。

《憲法は人間の才能や性格の違いを無視した一律な平等を保障しているわけではありません。憲法が禁止する差別とは、合理的な根拠を持たないものと考えられるからです。行きすぎた平等意識は社会を混乱させ、個性をうばう結果になることもあります。》

これでは、「合理的な根拠」を持った差別があるということになる。また、「行きすぎた平等意識」とは、何をもって判断するのか。それがなければ、単なる自己規制をせよということになる。どうして、「平等意識」が「個性」を奪うのか。

「平等」とは他人との関係にかかるもので、他人とのかかわりあい(interaction)の中で妥当な線に落ち着くもので、はじめから自分を控えるものではない。自分の権利を日常生活の中で、人間関係を維持しながら、主張していくことこそ、教育すべきソーシャルスキル(social skill)ではないか。精神の健康を維持するためにも、自分の権利を主張できることがだいじである。

「合理的な根拠」を持った差別とはなんのことか。育鵬社の教科書にはつぎのようにある。

《例えば人は大人と子ども、親と子、先生と生徒、職場の上司と部下のように、年齢や立場のちがいなどに基づいて人間関係を築いています。人間関係をうまく維持していくためには、そのようなちがいを認め合いながらたがいを人間として尊重する態度が必要です。》

すなわち、現状の「年齢や立場のちがいに基づく人間関係」を肯定し、それによる差別は「合理的根拠」をあるとしている。これこそ、私たちが打ち破るべきものではないか。老人を敬えというのは、本来、老人が弱い者であるから可哀そうということであって、権力をふるう老人は叩きのめしてかまわないのである。

90年前にドイツでヒトラーが政権を握ったとき、労働者階級やカトリック教徒は、首相だからといって、自分の意に反しても従った。そうして、ナチスはますます図に乗り、暴力的になり、逆らうものを収容所に送ったり、じかに殺したりした。予定説を信じるプロテスタント(カルヴァン派)は、人間は平等でないという信念にもとづき、中流階級は能力主義の立場から、ヒトラーの暴力を積極的に支持した。

「平等」とは、人間関係の上下を認めないことである。対等な人間関係を社会の基本に据えようということである。

大人がまちがうことだってある。先生がまちがうことだってある。上司がまちがうことだってある。医者がまちがうことだってある。首相がまちがうことだってある。

対等な関係を保っていれば、まちがったときだって、すぐ、謝って改めれば良い。メンツにこだわる必要はない。個人の精神の健康のためにも、社会の健全を維持するためにも、対等な人間関係を社会の基本とするのが良い。

育鵬社の「平等」の伴わない「自由」とは、強いものに有利な「自由」にすぎない。

対等でない人間関係のもとに「差別」を正当化する教科書の著者たちは、何か、現実の社会の中で、正義に反する「悪」に加担して、楽な生活をしているのではないか、と疑わざるをえない。


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