きのうの深夜、NHKの『フランケンシュタインの誘惑 ナチスとアスペルガーの子どもたち』の再放送を見た。
オーストリアの医師、ハンス・アスペルガーは、1944年に、『小児期の自閉的精神病質』という題の論文で、一群の奇妙な子どもたちのことを報告した。靴紐も結べず、普通の子のようにはしつけをできないが、内側には深い知的な世界を秘めている子どもたちを発見し、愛を持って接すれば、教育可能であると報告した。
1990年代には、彼にちなんで、知的能力障害を持たない自閉症の子どもたちのことを、アスペルガー症候群と呼ぶようになった。
ところが、きのうのNHKの番組は、ナチスの優生思想、遺伝的に劣ったものは排除すべきだという理念にしたがって、医師アスペルガーが、何十人もの子どもたちを教育不可能だと診断してシュピーゲルグルント児童養護施設に送っていたという。そこに送られた子どもたちはみんな「肺炎」で死んでいった。安楽死処分が行われていたのである。
2018年に医史学者ヘルビヒ・チェフが論文でそう発表したのである。エディス・シェファーも2019年の『アスペルガー医師とナチス 発達障害の一つの起源』で同じことを書いているから、とにかく、事実なのだろう。
私は、論文も本を読んでいないので、番組だけからは、医師アスペルガーの心の動きがわからなかった。とくに、医師アスペルガーが論文を発表した1944年には、ナチスの権威は崩れ始めたときである。
1つの解釈は、ナチスの思想が権威を失うか否かにかかわらず、医師アスペルガーは、教育可能か否かを、子どもの殺処分の判断基準においていたというものである。何十人もの子どもたちを、教育不可能という確信にもとづき、シュピーゲルグルント児童養護施設に送ったとする。だから、心の中に矛盾がない。
もう1つの解釈は、ドイツが負けると思ったので、本当の思いを論文に書いたというものである。それまでの行動は、ナチスに従ったまでである。
医師アスペルガーが生存中に、ナチス政権下での行為について、罪を問われなかったので、いまは、彼の心の奥まで知ることが難しい。
優生思想は、個人より民族共同体に重きを置けば、当然出てくることである。自分の民族が類として優秀なのに、劣った子が生まれるのは、何かの間違いであるから、その存在を抹殺するしかないとなってしまう。「教育不可能」を「コミュニケーション不可能」と置き換えれば、相模原の津久井やまゆり園殺傷事件の実行犯の主張と同じである。
そして、優生思想は当時ドイツや北欧で多数派だったと言われる。わからないのは、オーストリアではどうだったかである。当時のウィーンはヒトラーの嫌う「個人の尊重」の中心地である。だから、ヒトラーを慕った日本では、いまも「世紀末退廃のウィーン」というのである。
もしかしたら、アスペルガーは出世のためにナチスに従った可能性もある。ナチスに従順でない教師・研究者はウィーン大学から追い出されたという。
「個人の尊重」とは、ひとりひとりは異なるが、異なっていても、尊重されなければいけないという理念である。「教育不可能」であれ、「コミュニケーション不可能」であれ、かってに、存在すべきでないとして他人がその生を奪ってならないということである。
以前は、アスペルガー症か自閉症かの差異を知的能力で差別していたが、現在は、「自閉スペクトラム症」とひとくくりにしている。「うちの子はアスペルガー、自閉でないのよ、オホホ」となんて言って欲しくない。
自閉がどういうレベルであれ、「他人を信頼する」ということを愛をもって気長に教育すべきである。靴紐を結べるよりも、公文のドリルをこなせるよりも、他人を信頼でき、人との楽しい関係をもてることを、教えて欲しいと思う。
かってに「教育不可能」とか「コミュニケーション不可能」という刻印を子どもに押しては いけない。
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