猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

愚かしく生きること、映画『俺たちは天使じゃない』

2019-05-31 11:43:02 | 映画のなかの思想


1989年のコメディー映画『俺たちは天使じゃない(We're No Angels)』は、びっくりするほど、人によって評価が違う。
大多数は、こんなひどい映画は見たことがない、入場料 5ドルを返せ、と言う。ところが、少数だが、こんな感動する映画は見たことがないと言う人もいる。
酷評は、ロバート・デ・ニーロの演技が大げさすぎること、ストーリー展開に無理があることから、当然だと私は思う。
一方、ある少数の人を感動させるのは、宗教的メッセージが背後にあるからである。

ストーリーは、二人の囚人、ネッドとジムが、死刑囚ボビーの脱獄に巻き込まれ、カナダの国境近くの小さな田舎町に逃げ込む。二人は神父と間違えられ、修道院に潜り込み、そこで、カナダに脱出する機会を伺う。修道院の聖母マリア像をカナダの修道院に運ぶ祭りがあるので、二人はその行列に参加しようとするが、奇跡を招く障害者を連れてくるよう言われる。ネッドはおし(唖)の娘をもつ女、モリーにその娘を貸してくれと願うが、500ドルを払えと言われ、話しが成立しない。

祭りの当日、たまたま、ニセ神父のジムがくじで説教の役に当たる。ジムの苦し紛れの説教が町のみんなを感動させ、モリーは娘をネッドに手渡す。ところが、一緒に脱獄した死刑囚ボビーがその祭りに現われ、追って来た警察隊に撃たれる。ニセ神父ネッドは瀕死のボビーの教誨師に呼ばれるが、聖母マリア像の後ろにボビーを隠して逃がそうとする。

そして、聖母マリア像を運ぶ行列が始まる。カナダへの橋の中央にきたとき、聖母マリア像の手からボビーの血が流れる。みんなは奇跡だとひれふする。ボビーは見つかったのだと思い、おしの娘を人質にとり、山車からおり、即座に、警察隊に撃ち殺される。そのとき、聖母マリア像が倒れ、娘を橋の下に叩き落す。ネッドは娘を追って、橋の下に飛び込む。ネッドは娘を水中で捉えるが、そのまま、ダムの放水路に流れ落ちる。聖母マリア像も放水路を流れ落ち、ネッドと娘はそれにしがみついて助かる。

そして、また奇跡が起こる。おしの娘が声を発したのである。「脱獄囚」と言う。聞いた修道院の院長は「君たちは改宗者だね」と言うだけである。ネッドは娘と母親とともにカナダに渡り、ジムは本当の修道士になるため、修道院に戻る。

この映画がコメディーであるのは、修道士たちや院長が、徹底して、お人よしで、善意と奇跡と聖母マリアを信じている、あるいは、信じようとしているからである。
また、映画製作者が、ロバート・デ・ニーロをネッド役にあてているので、ネッドが主役のようである。

しかし、私には、ジムの選択とネッドの選択が対等に、私には思える。ジムは、人を責めず、争わず、愚かしく生きること選択した。ネッドは、自由を求めてカナダに逃げることを選択した。

ジムの選択した生き方は、弱い人たちが寄り添って生きることを可能にする。
もちろん、これが、多数のカトリック信徒たちの考え方か、映画製作者の願いなのかは、私にはわからない。


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