11月13日の朝日新聞のオピニオン&フォラム『女言葉だわ 男言葉だぜ』は3人3様の視点で語っていて面白かった。その記事を読んだ後、現実に話なされる言葉を活字に掘り起こそうとすると、確かに「女言葉」「男言葉」は存在しない。昔から存在しないのか、今日(こんにち)になって存在しないのか、定かでないが、確かに、いま、存在しない。
私の子ども時代は、母は父の「金沢弁」がオカシイといつも指摘していた。「金沢弁」は身分によって違うというのが母の持論で、父は商店の若旦那なのに、職人の「金沢弁」を使うのを改めて欲しいというのである。父は金沢の人ではなく、東京生まれだが、父の母が産後の肥立ちが悪くて死に、新潟の母の実家に出され、小学校を卒業した段階で、東京に呼び戻された。家では下町訛りの東京弁を話し、外では「金沢弁」を話そうとしていた。
つい最近まで、日本では、身分によって、言葉までが違ったのである。
だから、いまなお「女言葉」「男言葉」というものがあってもおかしくないのだが、子どもたちのおしゃべりを聞いている限り、「女言葉」「男言葉」がない。
翻訳家の越前敏弥は、「女言葉」「男言葉」が話し手が男か女かを表わすために作られた符号であるという。
言語学者の中村桃子は、「女言葉」が明治時代の女学生の話し言葉であるという。
同じく言語学者のMark Libermanは、英語でも「女言葉」があるが、相手への確認や承認を求める言い回しを女性が使うという偏見から来るという。
3人とも「女言葉」「男言葉」は作られた偏見、妄想であるということだ。
私は、戦前の作家、泉鏡花の「女言葉」が好きである。読んでいると三味線に合わせて女の声が聞こえてくるように思える。しかし、泉鏡花は金沢で生まれ金沢で育ったから、本当の東京の下町の話し言葉を知っているというより、歌舞伎の女形の言葉を「女言葉」として小説に使っていたのだと思う。
じっさいの話し言葉には、アクセント、イントネーション、節回し、声の高さ、声の質がある。それらは、活字に起こすと、失われる。マンガやライトノベルでは、男とか女とかは重要ではない。それらの話し言葉の特性は、話し手のキャラクターを理解するのに、必要なのだ。子どもたちを観察していると、大人のように「何々なのよ」とか「何々だぜ」とかいう、わざとらしい語尾を付け加えるかわりに、カタカナに変えたり、「!」「?」「・・・」「w」「★」「♫」とかあらゆる記号を用いる。
活字にされた言葉から、身分の差や男女の差の表現が抜け落ち、キャラクターの使い分けになってきたのは、良い方向への書き言葉の進化であると思う。
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