岩井克人の『21世紀の資本主義論』(ちくま学芸文庫)を読むと、彼も子どものとき、ガモフの『1,2,3,…無限大』を読んで興奮したようである。ただ、色々な点で感覚が私と違う。1つは「理論」という言葉がもつニュアンスである。
彼は言う。
〈理論の正しさは経験からは演繹できない。いや、経験から演繹できるような理論は、真の理論とはなりえない。真の理論とは日常の経験と対立し、世の常識を逆なでする。〉
〈だが、日常経験と対立し、世の常識を逆なでするというその理論の働きが、真理を照らし出すよりも、真理をおおい隠しはじめるとき、それはその理論が、真の理論からドグマに転落したときである。〉
何か新宗教の教祖さまのお言葉を聞いているようである。超人が頭の中で創りだしたものが、「日常の経験と対立し、世の常識を逆なで」しても、真理を照らすという。
自然科学を探究するものにとって、「理論」とは「仮説」にすぎない。自然を探究するための「作業仮説」である。よくできた他人の「理論」は害にしかならない。体系的な美しさに騙されて、真理を探究できなくなる。ディラックがどう言おうと、アインシュタインがどう言おうと、それは仮説にすぎない。なにか、納得できないものを感じたら、自分の「理論」を信じて探究していくしかない。誰かが言ったことが、真理であったら、それで世界の発展は終わりである。自然の中の一部にすぎない人間が真理をわかる筈がない、人間の知識は常に書き換えられて行く、というのが、私の信念である。
岩井の「資本主義」「形而上学」とかの言葉の使い方も良くわからない。
「metaphysics(形而上学)」は単に「physics」に対抗するものを指すにすぎない。「physics」は自然に関する知識で、「metaphysics」は人間の思考に関する知識である。形而上学を何か素晴らしいものと思うのも滑稽である。
さて、彼は「資本主義の基本原理」についてつぎのようにいう。
〈複数の価値体系のあいだに差異があれば、その差異を媒介して利潤を生み出す。差異性こそが利潤の源泉であること〉
この「基本原理」という言葉の意味がわからない。そして、どうして、これを「資本主義」の概念モデルとするのかも わからない。
この「基本原理」は、金融業界の人がよく口にする「金儲けの秘訣」である。私はIT業界にいたから、金融業界のお金儲けを支援することが、私のビジネスであったので、よく彼らから、どうすれば支援になるのか教えを乞うていた。
「資本主義」とは現実に存在する社会をモデル化したものにすぎない。別に「資本主義」という新宗教や法人のことでもない。「金儲け」だけでなく、現実の社会をいろいろと特徴づけるものがあろう。また、「金儲け」だって、色々なやり方もある。
私が子ども時代に教わったのは、人を雇わないと金儲けができない、人を雇って使いこなすには被雇用者の独立を防ぐ何かの力がいるということだ。コンサルティングの仕事では、人を雇用し管理する技術をアドバイスすることがだいじな項目になっている。
私は「資本主義」を「賃労働」という雇用形態で定義することもできると思う。
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