安倍晋三は、『新しい国へ―美しい国へ 完全版』(文春新書)の「第3章 ナショナリズムとはなにか」で、2004年のアテネオリンピックで優勝した柴田亜衣選手が「金メダルを首にかけて、日の丸があがって、『君が代』が流れたら、もうダメでした」と大粒の涙を落した、と紹介している。
「君が代」や「日の丸」で涙を流すか、どうかは人に依存する。
犬や猫と同じく、人間は記憶によって行動する。「君が代」や「日の丸」が、情動と結びついた何かのエピソードの記憶を思い出し、情動が吹き出たのであろう。柴田亜衣選手は苦しかった練習を思い出したのかもしれない。
このような情動的反応は、ベルの音に反応してよだれを垂らす「パブロフの犬」と同じだ。どういう情動反応を示すかは、基本的に、個人的なもので、個人の自由だ。
しかし、安倍晋三が「君が代」や「日の丸」で涙を流すこととナショナリズムを結びつけることには、危険なものを感じずにはいられない。
「君が代」を聞き、「日の丸」を見たとき、その瞬間に思考停止に陥って、「日本のために殉ずる」という熱い思いに涙するように、若者たちが仕込まれたら、どうなるだろうか。高村光太郎のように、「日本あやうし」「私の耳は祖先の声でみたされ」「個としての存在から国家主義精神と一体となる」のではないか。
私や妻は、「君が代」や「日の丸」で涙を流すことはない。
イタリアやフランスやロシアの三色旗のほうが好きだし、アメリカの星条旗も悪くないと思う。「君が代」は ついていけない。フランスの国歌「ラ・マルセイエーズ」やソビエトの昔の国歌「インターナショナル」のほうが良い。
そっちの方が華やかだから良いと個人的に思うだけで、歌や旗を国家と結びつけるのは反対である。情動的なものを、国家権力の遂行の道具をしてはいけない。
そのイケナイことをしているのが、自民党政府であり、安倍晋三である。
2001年9月11日、アルカイダがニューヨークのワールド・トレード・センターを攻撃した。そのとき、一夜にして、いままで隠れていた右翼の若者が星条旗を持ち道路を行進はじめた。星条旗と国歌のおかげで、再選しないだろうと言われていた共和党のジョージ・W・ブッシュが2004年の大統領選で再び選ばれた。
そしてブッシュは、アルカイダの拠点アフガニスタン国を占拠しただけでなく、それと無関係のイラク国も占拠し、政権をひっくり返した。武力による内政干渉である。これが、現在の中東の不安定化を招いている。
星条旗が道路にあふれる光景に、当時、わたしも、わたしのアメリカの友人たちも、ナショナリズムという人間の愚かさに、嘆かずにいられなかった。
(つづく)
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