M.I.フィンリーの『民主主義 古代と現代』(講談社学術文庫)は、古代ギリシアの民主政(デモクラシー)について述べた名著である。その第1章はつぎで始まる。
「近代の世論調査が「発見」したものの中で、おそらく最も知られておりまた最も誇れることは、西欧の民主主義国の大多数の選挙民が政治に無関心であり、無知であるということである。彼らは争点がよくわかっていないし、そのほとんどについて関心すら抱いていない。…… 国によっては、大多数の人が、かけがえのない投票権を行使さえしない。」
フィンリーは何を言いたいのか。決して、政治への無関心を勧めているのではない。民主政が教育の普及している現代なお実現していないことを非難しているのだ。
エイブラハム・リンカーン米大統領の有名な言葉 “government of the people, by the people, for the people”(人々の人々による人々のための政治)は、近代社会において、あくまで理想で、実現していない。多くの人々は政治に無関心で政治に参加しないのである。
それに対し、古代ギリシアでは、人々は政治に積極的に参加していた、とフィンリーは言いたいのである。
「戦争や平和、条約、財政、律法、公共事業、つまり統治活動の全領域に最終的な決定権を持つ民会は、18歳以上の年齢で、その日に出席した何千何万もの市民からなる野外の大衆集会であった。」
「最高意思決定機関である民会への出席はすべての市民に開かれていたし、官僚機構もしくは公務サービスは少数の書記を除いては存在しなかった。その書記と言うのは国家自体が所有している奴隷であって、彼らは条約や法律の文書、税金滞納者のリスト、その他のどうしても残さざるをえない記録の保管に携わっていた。したがって統治機構はまさに文字通り『人民による』ものであった。」
したがって、古代において、まさに、「人々の人々による人々のための政治」が実現していたのである。
古代のアテネには公的教育制度はない。経済格差もある。当時の知識人たちは、フィンリーによれば、大土地所有者、大商人などの子どもたちで、広場でゴロゴロしながら、対話を通じて知識を増やしていたのだという。しかし、彼らは、農夫、小売商、職人など下層民(デモス)を助けて、「最高意思決定機関である民会」の体制を継続したのである。
デモクラシーは政治体制として見ることも、政治思想として見ることもできる。政治思想としては、デモクラシーは人びとはみな平等である。そして、自分たちの運命を自分たちみんなで決めるということになるだろう。
行政機構の発達した現代社会では、古代ギリシアのような直接民主制は実現は無理だろう。しかし、政治思想としてのデモクラシーは実現したいし、実現すべきである。選挙の時だけ政治参加がある社会はデモクラシーでない。プーチンやトランプのような独裁官はいらない。独裁は、社会に恐怖と腐敗をもたらす。
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