憲法学者の石川健治は、一カ月前の10月13日の朝日新聞に、『日本政治の現在地 民主的「皇帝」は生き続けるか』を寄稿した。この〈民主的「皇帝」〉とは平成天皇のことではない。岸田文雄のことである。石川は、岸田が右の民意も左の民意も取り付けたルイ・ボナパルトのようになるかもしれない、と言うのである。そして、それは喜劇であると、マルクスの名作『ルイ・ボナパルトのブリュメールの18日』を引用してのべるのである。喜劇であったというのは、当時のフランス国民のドタバタを指すのである。
まさか、日本でそんな愚かなことが起きないと思ったら、そうでもないようだ。
今日の朝日新聞で政治学者の豊永郁子が岸田文雄を「民主主義のよき擁護者――要所を理解している」と持ち上げているのだ。『(政治季評)岸田氏とアリストテレス 「中間層」にみた民主主義』である。
彼女の根拠を見ていこう。
その1。自民党総裁選で開口一番「自民党の役員人事について任期1年、最長3期までという任期制限を提唱した」。この「開口一番」に注意が必要で、その翌日には、この「任期制限」を引っ込めている。それ以降、これを提唱することはない。石川のいう「喜劇」とは、このことをいうのである。岸田は、単に自分が勝ち残るために、なんとでも言う男なのだ。
任期制限は昔から自民党の党規にあり、安倍晋三がその制限を修正して長期政権をなしたとき、岸田はそれを支持したのである。
その2。経済政策では、「広がる経済的格差の問題に対して、トリクルダウン(一部が富めば皆が潤うとする)でもセーフティーネット(困窮した一部を救うとする)でもなく、中間層の拡大を処方する」。「セーフティーネットでもなく」に注意してほしい。
これを豊永は「アリストテレスの論」だと支持する。彼女は言う。
《 中間層は消費を生み出し、教育や住宅、健康に投資し、良質な公共サービスを支持し、腐敗と戦い、民主主義の諸制度に信頼を寄せる、これらにより社会の安定と経済成長を支えると言われている。》
豊永は、客観性があるかのように「言われている」という語尾を付け加えているが、そんな中間層の人を私は見たことがない。彼女はどれくらいの収入のある人を言っているのだろうか。彼女はさらに言う。
《 ほどほどの経済基盤をもち、安定した人生を送る中間層は、ねたむことも さげすむことしない。》
《 これに対して富者は傲慢さや さげすみを、貧者は卑屈さや ねたみを有し、この二極に引き裂かれた国家、あるいはどちらか一極が支配する国家は安定せず長くは続かない。》
まず、アリストテレスはプラトンと同じく「民主主義」に反対した人である。「教養」あるエリートによる政治を提唱した人である。これに対し、アテネの民主主義は、字も読めない人びとによって、守られていたのである。
アリストテレスは中庸を良しとした凡庸の人である。彼が教育したアレキサンダー大王は彼をバカにして武力で世界征服に向かった。
つぎに、「貧者は卑屈さや ねたみを有し」は失礼でないか。「卑屈さ」「ねたみ」はほとんどの人が持つのではないか。私の経験では、中間層の人こそ、「媚びて」権力の座に近づくではないか。「卑屈さ」「ねたみ」は「貧者」の特性ではない。
中間層を増やすのではなく、貧困層を引き上げることこそ、政治の課題である。J.K. ガルブレイスやジョン・ロールズは、生産手段の発達した現代こそ、それを実現するチャンスであると言っている。
その3。「岸田氏は過去10年間30冊近いノートに直接聞き取った人々の声を書きとめてきた」。これは、岸田のパフォーマンスである。総裁選の頃に、メディアの前で、小さな手帳のようなノートをとりだし、自分は聴くのが得意であると言った。これまで、しなかったことだ。それに、これまで、どんな声を聴いたかを話すことさえしていない。誰かがパフォーマンスを入れ知恵しただけである。
岸田に対する豊永郁子の期待は根拠がない。きのうの加藤淳子も、白波瀬佐和子も、これら大学教授は本当の社会を見ず、妄想で語っている。私は、現実を見ている宇野重規の「民主主義は平等である」を支持する。
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