猫じじいのブログ

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豊永郁子の『ウクライナ 戦争と人権』を考える

2022-08-13 00:24:24 | ロシアのウクライナ軍事侵攻

きょうの朝日新聞に豊永郁子の寄稿があった。タイトルは『ウクライナ 戦争と人権』である。徹底的な抗戦よりも降伏という手がウクライナにあるのではないか、というものである。確かにその選択肢がある。

今から80年前、4年間近くアメリカと闘った日本を思い返すとき、その考えにうなづける。戦争を続けているかぎり、人が殺され続ける。

しかし、アメリカとの戦争は日本から仕掛けたものだ。ウクライナはロシアの侵攻に対しての本当の「専守防衛」である。しかも、ウクライナは独立国であり、議会も機能している。日本にいて、他国であるウクライナに降伏した方が良いとは、私には言えない。

「戦争」は暴力である。自分の意思を暴力によって貫徹することである。東ヨーロッパやバルカン半島の歴史を見るとき、暴力が荒れ狂っていた歴史がある。自分の小さな幸せを守るには、山間部に逃げ込むしかなかった。しかし、人口が増えた今となっては、山間部に逃げ込むといっても、現実的ではなく、難民として周辺国に逃げ込むしかない。

私の子ども時代は、戦後であるが、町には暴力団がおり、学校には番長がいた。いつでも、闘うのだという緊張関係のもとに、平和があった。情け容赦のない無茶な要求には闘うという姿勢を堅持することで、小さな幸せが守られた。さもなければ、暴力によって際限なく奪われ続けるのである。

ウクライナの徹底抗戦にはそれなりの理由があるのではないかと思う。また、ロシアの侵攻にもそれなりの理由があるだろう。兵器は無料ではない。弾薬には限りがある。殺される兵士、民間人の数も限りがある。戦争の無意味さを味わうだけ味わって、すべてを失って、戦争が終わるだろう。

今回の戦争勃発に至った誤りは、アメリカ政府が最初に戦わないという意思を表示したことにある。この2月にロシアのウクライナ侵攻があるとわかったとき、アメリカ政府は、ウクライナに在留のアメリカ人を引き上げさせ、選挙で選ばれたゼレンスキー大統領に国外逃亡を勧めたのである。アメリカ政府はウクライナに軍事侵攻しなかったが、あのとき、ウクライナの国民を裏切ったのである。

ウクライナの北部は森林と沼地である。ベラルーシからウクライナ北部に侵攻したロシア軍は一本道の道路をだらだらと進むしかなかった。日本のメディアはバカなロシア軍と報道したが、この段階で「短距離」ミサイルがウクライナ軍にあれば、最初の侵入を食い止めることができたのである。ロシア軍の侵攻はアメリカ政府がウクライナを見捨てたことを知った上での作戦であった。

勘ぐれば、ロシア政府とアメリカ政府のあいだに何かの了解があったのではないかとさえ、思える。

自分の尊厳のため、家族を逃がし、死ぬという選択肢も個人にあると思う。自分の尊厳とは、自分は奴隷ではなく、自由意志をもった人間であることだ。イマニュエル・カントの「啓蒙」とは、自分が自由意志をもった人間であることを自覚させることである。「信念だけで行動して結果を顧みない心情倫理の人」とゼレンスキー大統領を非難するのは一方的すぎないかと思う。

豊永はガンジーの「非暴力主義」に言及するが、「非暴力主義」はそれが通用する社会制度の存在を前提としており、私の経験では、「非暴力主義」が通用する社会を築くには継続的な戦いがあると思う。そこでは多少の暴力が必要になるかもしれない。悪が善に打ち勝つことにも耐えて、「善」を掲げ続ける局面もあるのだろう。

日本の現実に戻ると、日本は中国や北朝鮮に戦争を仕掛ける必要がない。軍備の拡大もいらない。改憲もいらない。それよりも、アダム国とエバ国の論理で信者に一方的献金をさせる統一教会と関係をもってきた日本の政治家の無節制ぶりを批判するほうが急務だと思う。



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