自由主義神学者アドルフ・フォン・ハルナックは不当な評価を受けているのではないかと思う。
『キリスト教の本質(Das Wesen des Christentums)』を読む限り、彼は、普通の牧師が話すような、あたりまえことを言っているだけなのに、キリスト教保守派からは罵倒される。彼は、何かに縛られることのない「自由」、誰かが誰かを支配することのない「平等」、争わない「平和」な生き方が話すだけなのに、罵倒される。彼の言っていることは、聖書の福音書をつらぬく精神ではないか。
森本あんりは、『異端の時代――正統のかたちを求めて』 (岩波新書)で、 ハルナックが、バルトニア海に面した小国エストニアに、1851年、生まれたことに着目する。
エストニアの多くの人々はウラル語族に属するエストニア語を話し、残りがスラブ語族のロシア語を話している。ウラル語族は日本語と同じような「助詞」のある語順フリーの言語であり、ドイツ語とはまったく異なる。スラブ語族もドイツ語と異なり、冠詞だけでなく、名詞や形容詞の格変化(語尾変化のこと)があり、ウラル語族と同じく、語順に自由性がある。
イエスが、多言語環境のナザレに生まれ育ったように、ハルナックもそのような環境に生まれ、コスモポリタンとして育ったはずである。皮肉なことに、彼の『キリスト教の本質』がドイツ帝国で評価され、彼はどんどん経歴を上り詰める。ベルリン大学総長や学術振興協会総裁や王立図書館館長を歴任し、第1次世界大戦の開戦にあたって、皇帝ヴィルヘルム2世の勅書を書くにいたる。
森本あんりはこの経歴を「屈折した愛国心」と形容する。
凡庸なほど まっとうな ハルナックの『キリスト教の本質』は、当時の知的ドイツ人の心をつかんだ。しかし、「正統」な神学者からみれば「異端」であったらしい。森本あんりによれば、それは、キリスト教信仰の根幹部分をなす教義「三位一体論」や「キリスト論」を含んでいないからである。
三位一体論とは「神が父・子・精霊の三位格をもつ1つなる神である」こと、キリスト論とは「子なる神がまったき神でありかつ同時にまったき人であって、神人の両性は混合することも分離することもない」ことである。わたしには、理解不可能な呪文である。
森本あんりによれば、根幹教義に対する「そんなことはどっちでもいいじゃないか」というハルナックの態度が、「正統」な神学者には許せなかったらしい。
私は、さらに、ハルナックが、旧約聖書をキリスト教の正典から取り除くべきと述べたことが、保守派の虎の尾を踏んだ、のではと思う。
プロテスタントの長老派教会は、毎日曜日、十戒を全員で唱えるが、これは、旧約聖書の『出エジプト記』や『申命記』からくるものである。これを含むモーセの五書は、あまりにも民族主義的だし、男性中心的である。「神ヤハウェに逆らうものは殺せ」「男の所有物である妻をおかすものは殺せ」は、コスモポリタンの精神には苦痛であった、と思う。
旧約聖書の中には、民族主義的な部分と普遍主義的な部分とがある。『ヨブ記』『箴言』『コへレトの言葉』などは普遍主義的な部分である。
ハルナックの『キリスト教の本質』を読むと、私は、思想として、プロテスタンティズム(特にカルヴァン主義)とナチズムと反ユダヤ主義との関係の整理が必要である、と思う。
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