猫じじいのブログ

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民主主義は民衆が自分たちで自分たちを統治すること

2020-03-01 23:51:38 | 民主主義、共産主義、社会主義
 
「無政府主義」とか「共産主義」とかが、何か怖いものだというイメージがいまだに残っている。これは、まったく誤りで、既成権力が意図的に作った誹謗中傷である。
 
「政府」は英語で “government”という。“govern” とは統治する、あるいは支配することをいう。民衆を支配するための「政府」はいらない、必要なのは民衆にサービスする機関だ、というのが「無政府主義」である。別に混乱した社会を求めているのではない。
 
トーマス・ホッブズは『リヴァイアサン』で、「無政府主義 anarchy」は「民主政 democracy」の別名で、「民主政」を悪くいうとき、“anarchy”というと書く。彼は、ひとりの意思で民衆を支配すれば、“monarchy”で、一部の集団で民衆を支配すれば、 “aristocracy”で、民衆が自分たちで自分たちを統治すれば、“democracy”であると言う。
 
M. I. フィンリーは、古代アテナイの「民主政」では、プラトンの非難するように、役職は抽選で持ち回りが原則で、現在のような政府も首相も大統領もなかったという。「民会έκκλησία」が最高の意思決定機関で、決まったことをアテナイの民衆が実行したという。
 
「政府」となるものができたのは、ただ一人の意思で、あるいは、一部の集団の意思で民衆を動かそうとするから必要になったのだ。すなわち、命令で動く官僚組織や暴力組織である。
 
ふたたび、「民主政」を人類が選択したのは、近代の市民社会の成立によってである。
 
現代の民主的国家では、社会が複雑になって専門家が必要だといえ、それは民衆により良いサービスをするために必要なので、民衆を支配するためではない。
 
“aristocracy”は「貴族政」と日本語で訳されているが、ギリシア語の “ἀριστοκρατία”からきて、プラトンは「教育を受けた優秀な人々による支配体制」という意味で使っている。現代でいうと「エリート」のことである。プラトンは「民主政」ではダメで、優秀者による支配、 “monarchy”や “aristocracy”を主張した。
 
フィンリーが指摘するように、現在、多くの国で「民主政」を装いながら、専門家による民衆の支配が起きている。理解しがたい法律用語が飛び回り、弁護士を雇わないと物事が解決できないような社会になっている。
 
こういう馬鹿げた社会だから、ドナルド・トランプがワシントンの政治家を攻撃することで、大統領になれたのである。
 
「民主主義が限界」ではなく、いつのまにか、一部の人間が政府を私物化し、「民主政」が空洞化し、いつのまにか“monarchy”や“aristocracy”のような状態が生じているのである。
 
民主主義の社会では、あくまで、「政府」は民衆へのサービス機関であって、「首相」は公共サービスのまとめ役と監査の役割である。民間の会社では、まとめ役は取締役会の議長が行い、監査役と別である。公共サービスを行う「民主的政府」でも、まとめ役と監査役とは別にし、しかし、監査役には強力な調査権限を与えるべきだろう。
 
「三権分立」というが、政治が民衆によって民衆のために行なわれるのが目的で、政治の専門家や司法の専門家や政治の専門家の手に落ち込まないよう、非専門家である民衆の意思がとおるように、政治の仕組みを改善していけないといけない。4権分立でも5権分立でも良いのだ。日本では、中央の「政府」に権限が集中しており、実際の民衆へのサービスは地方自治体(地方政府)で行われている。この間の新型コロナウイルス対策で中央政府の無能さが明らかになった。中央政府の整理縮小が必要である。権限が集中すると腐敗が起きる。
 
そういう意味で、過去の天皇制の遺物が残った現在の政治体制を不動のもののように教える学校教育は、政府による「洗脳教育」と言える。用語ばかりを教え、「国民の三大義務」は何かを問う学校の公民教育は間違っている。
 
「共産主義」は「富の共有」を理念にかかげる考え方である。初期のキリスト教も「富の共有」を唱え、その後も何度も何度も「富の共有」の思想が復活した。プラトンも富の偏在を国を壊す要因と考えたが、彼は “monarchy”や “aristocracy”を理想国家とするので、優秀者集団である「守護者 φύλαξ」の間だけでの、富の共有、家族の共有を唱えた。
 
民主主義は、能力の差があっても人間の平等を基本とする。「富の共有」までいかなくても、「富の偏在」を是正する努力は必要だと思う。
 
なぜ、「富の偏在」が生じるのかの議論をふだん私は聞いたことがない。なぜ、給料に100倍の格差があるのか、その説明を聞いたことがない。個人に好みの違いがあるので、「共同食事」のような画一的な平等を私は求めない。しかし、現在なお「富の共有」の思想が吹き出るのは「富の偏在」があるからだ。そして、「富の偏在」は、また、需要が供給に追いつかないという不況を民主的であるはずの国々に起こしている。


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2 コメント

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Unknown (生物)
2020-03-12 19:10:58
民衆を民衆と誰が定めるのだ?
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Unknown (AriStoCraZyです。)
2020-07-07 10:43:55
AriStoCraZyのブログは
国家の基幹は子供の教育
精神は AriSto ! 行動は CraZy !
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