先日、キリスト教布教ビラに『マタイ福音書』11章28節が書かれていた。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」
私の通ったプロテスタント改革派の教会の牧師も、続く29節、30節を合わせて、よく朗読する。ここはとても心地よく聞こえるところである。以下に、山浦玄嗣にみならって、私もギリシア語聖書からここを直訳してみよう。
働き疲れ、重荷を負う者は、だれでもわたしのそばにおいで。
そう、わたしがあなたがたを休ませてあげよう。(11章28節)
わたしのくびきを自分で負い、わたしを見習いなさい。
そう、わたしは穏やかで心のへりくだった者、あなたがたはたましいに休息を見いだすだろうから。(11章29節)
なぜって、わたしのくびきはやさしく、わたしの荷は軽いから。(11章30節)
29節と30節は、心地よく聞こえるが、また、わたしがひっかかったところでもある。
この「くびき」は、τὸν ζυγόνで、牛に荷物をひかせるための首かせである。イエスはどのような「くびき」を自分で負えと、私たちに主張しているのかが気になった。
田川建三は、11章28節で私が「働き疲れ」と訳したκοπιάωは、「過酷な労働をする」という動詞であると言う。これを「教え」と考えると、ここは、実際の過酷な労働をしている者に精神的な慰めをあげよう、と言っているだけになる。
旧約聖書の『列王記上』12章4節、また、『歴代誌下』10章 4節に
「あなたの父上はわたしたちに苛酷な軛(くびき)を負わせました。今、あなたの父上がわたしたちに課した苛酷な労働、重い軛を軽くしてください。そうすれば、わたしたちはあなたにお仕えいたします。」(新共同訳)
とイスラエルの民がソロモンの息子レハブアムに訴えたとある。
これに対し、『列王記上』12章 11節、また、『歴代誌下』10章 11節で、レハブアムは
「父がお前たちに重い軛を負わせたのだから、わたしは更にそれを重くする。父がお前たちを鞭で懲らしめたのだから、わたしはさそりで懲らしめる。」(新共同訳)
と答えた。これにより、民は去り、イスラエルは南北に分裂した。
過酷な労働は過酷な労働でなくなることが私たちの願いなのだ。『マタイ福音書』11章30節は、単純に、くびきにかかる荷が実際に軽くなって欲しいという願いではないか。
私は、マタイ福音書のこの部分は、イエスの教えでなく、「ヨイトマケの唄」のような当時の仕事歌を下敷きにした慰めだと考える。
「わたしのくびきを自分で負う」までが仕事歌で、「わたしを見習いなさい」はマタイ派が挿入した「イエスの教え」ではないかと思う。「ファリサイ派の『律法』ではなくイエスの無料の『律法』に従う」ことをマタイ派が言っているのであろう。
『マルコ福音書』『ルカ福音書』『ヨハネ福音書』には、この11章28節、29節、30節に相応する記述はない。
実は、『列王記上』と『歴代誌下』のこの部分のギリシア語は「くびき」をのぞき、正確に一致している。『列王記上』のくびきはτὸν κλοιὸνであり、『歴代誌下』のくびきはτὸν ζυγὸνである。『マタイ福音書』のくびきは『歴代誌下』に対応する。
『列王記』は、分裂した南北の王国を対等に扱う。『歴代誌』は南のユダヤ王国を中心として歴史を記述する。
イエスの故郷、ガリラヤは北のイスラエル王国にある。「ソマリヤ人」のソマリヤも北のイスラエル王国にある。
神殿のあるエレサレムは南のユダヤ王国にある。
土地の肥えた北のイスラエル王国が先に滅ぶので、ユダヤ王国がイスラエルの正式な後継者と見なされがちであるが、それは誤りである。
名称「イスラエル」王国が示すように、イスラエルの民は、ソロモンの子レハブアムとエレサレムを見捨て、北に自分たちの王国を作ったのである。
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