猫じじいのブログ

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物語としての「主の契約の箱」

2021-02-17 22:27:35 | 聖書物語

旧約聖書の『ヨシュア記』、『サムエル記』、『列王記』によれば、イスラエルの民は「主の契約の箱」(ארון ברית־יהוה、アロウン・ベリット・ヤハウェ)を担いで戦争に行ったとある。

主の契約の箱とは、文字のかかれた石の板を入れた箱のことである。戦争なんて人を殺すわけだから、楽しくもなく、残酷で凄惨なだけである。しかし、この重たい石板を入れた箱を数人がかりで担いで戦争にいったという話しは、何か、滑稽である。どう考えても、実際の戦争を経験したことのない老人が、昔話として、火のそばで孫たちに話す、おとぎ話のように聞こえる。

『ヨシュア記』6章には、「主の契約の箱」を担いで、エリコの町を包囲した話がある。

「ヨシュアが民に命じ終わると、7人の祭司は、それぞれ雄羊の角笛を携え、それを吹き鳴らしながら主の前を行き、主の契約の箱はその後を進んだ。武装兵は、角笛を吹き鳴らす祭司たちの前衛として進み、また後衛として神の箱に従った。行進中、角笛は鳴り渡っていた。」(『ヨシュア記』6章8、9節 新共同訳)

英雄ヨシュアは、イスラエルの民に 7日間「契約の箱」を担いで町の周りをまわらせるが、はじめの6日間は角笛を吹くだけで声をたてさせず、最後の日に、ときの声を上げさせた。すると、町の城壁が崩れ、イスラエルの武装兵が町になだれ込み、内通していたものを除き、皆殺しにし、略奪の限りを尽くした、と『ヨシュア記』は書く。

最後は、桃太郎伝説と同じく、暴力をふるって敵を殺し、略奪して終わりである。

しかし、この伝説から、レビ人とは、祭司とは、古代イスラエル人の最下層に位置づけられていた人たちだ、とわかる。私は、大名行列の先頭を歩く足軽を思い起こす。足軽は、尻をだして、「下に下に」と声かけながら、踊るように歩くのである。

私は、6章を読むと、英雄ヨシュアに命じられて、7人の祭司が尻を出して踊りながら角笛を吹き、4人のレビ人が 重い石の箱を よろめきながら 運んでいる姿を思い浮かび、笑ってしまう。

『ヨシュア記』は、もとは『申命記』のつづきとして書かれたもので、バビロン捕囚から解放され、エレサレムに帰還の後の紀元前6世紀から4世紀にかけて書かれたものである。『申命記』が、モーセがイスラエル人を奴隷の家エジプトから解放し、カナンの地を目前とし、死ぬ物語なら、『ヨシュア記』は、ヨシュアがモーセの意志をつぎ、カナンの地を奪う物語である。

現実のイスラエル人は、ペルシア帝国の政策の一環として、バビロン捕囚から解放されたが、自分たちの国を建設することもできず、エレサレムを宗教都市として再建するなかで、想像力で自分たちの無力さを覆い隠していたのである。『ヨシュア記』を含む『モーセ六書』は、強かった祖先を想像して心を慰めるものであったのだろう。

さて、「契約の箱」のなかの石板には、モーセが神から受け取った十戒が書かれていたとされる。E.オットーは、『モーセ 歴史と伝説』(教文館)で、『出エジプト記』の十戒と『申命記』の十戒とが異なる、と指摘している。

それより、私は、「契約の箱」の伝説を書き記した人たちは、どんな文字で十戒を石に刻んだと考えたか、興味を抱く。彼らが想定したモーセの時代には、フェニキア文字もヘブライ文字もない。あるのは楔文字かエジプト文字である。楔文字を石に刻むのは大変であっただろう。

変なのは、契約の箱から石板を取り出して、祭司が十戒をみんなの前で朗読したとかの記述がないのである。『ヨシュア記』や『サムエル記』や『列王記』では、戦争のとき、あたかも、軍旗のように重い箱を運んだ、あるいは、敵に奪われたの話しか、ないのである。

だから、ハリウッド映画、『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』では、主人公インディ・ジョーンズとナチスとが地上最強の兵器「契約の箱」をめぐって争うというトンデモナイ物語になってしまう。

『列王記上』8章6節に、ソロモン王が神殿の奥に「契約の箱」をしまい込んだとある。旧約聖書には、それ以降、「契約の箱」の記述はない。なお、『列王記下』12章に、ヨアシュ王の時代、祭司ヨヤダが「契約の箱」のかわりに、さい銭箱を神殿の入り口に置いたとある。

☆☆☆ これで おしまい。


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