E.オットーの『モーセ 歴史と伝説』(教文館)を1週間前から読んでいるが、いまだに読み終えられない。比較的薄い本であるが、モーセの五書あるいはモーセの五書にまつわる話を13章にわたって書いており、各章の内容が心にひっかかり前に読み進まない。
本書の内容は、ヘブライ語聖書の中のモーセ五書がいかに形成されたか というテーマと、モーセ五書が近代人にいかに受け入れられたか、あるいは拒否されていたか というテーマとからなる。
後者のテーマには、精神分析を創始したフロイトの説、モーセはエジプト人で、ヨルダン川を渡る前にイスラエル人に殺されたとか、歴史学者アスマンの紹介したエジプトの伝承、モーセは逃亡らい病患者集団の指導者とか、トーマス・マンのモーセの受容とかが含まれる。
本書はこのように欲張りすぎている。
「モーセの五書」は、ヘブライ語聖書の『創世記』『出エジプト記』『レビ記』『民数記』『申命記』を指す。これに『ヨシュア記』を加えて、「モーセの六書」と呼ぶ。
第3章では、19―20世紀の学問的研究の結果を、すなわち、モーセの五書の文書批判的な読みの結論を、その方法論の説明もなく、「モーセの五書」は歴史書でないと、簡単に述べる。
〈五書の物語群が示すのは、個々にいわば1つの文学的な山塊があり、そこには膨大で多種多様な主題や法的素材が堆積していて、……このモーセという人物像は、それらの雑多な素材群を1つに束ねる留め金としての文学的機能を果たしているのである。〉
〈ヴェルハウゼンは、モーセの時代のヤハウェを単なる純粋な自然神かつ戦争神と見なし、モアブ人やアンモン人などの周辺民族の神々と何ら違いはなかった、と論じる。〉
オットーに80年以上先だつ旧約学者マルティン・ノートは『モーセ五書伝承史』 (日本基督教団出版局)で、モーセの五書を物語と考え、テーマの連続性に着目し、挿入部分をより分け、雑多な素材群に分割した。ノートはJ、E、G、P、Dにモーセの五書を章節のレベルより細かく分類している。
例えば、『創世記』の2章4節は、「これが天地創造の由来である」と「主なる神が地と天を造られたとき」と分割され、前半までがPの物語で、後半がJの物語である。
じつは、用語法から見ると、前半の「天地」と後半の「地と天」は、「天」「地」の語順が違う。ヘブライ語聖書の原文に当たってもそうである。さらに、後半のJでは、「地」も「天」も冠詞がついているが、ノートはその違いに言及しない。
オットーは、さらに、ノートが物語の連続性に着目してモーセの五書をJ、E、G、P、Dに分割したことに、言及しない。したがって、次章からのオットーの五書形成の分析は、ノートとの成果とどういう関係にあるのかは、わからない。
第4章から第9章までのオットーの分析手法は、モーセの五書の作成・編集に携わった人たちを動機でグループ分けし、モーセの五書の形成過程を推定するというものである。
モーセの五書に直接関与したものを、オットーはツァドク系祭司、アロン系祭司にわける。ツァドク系祭司は、ユダヤ国の王の権威によって、権威付けられていたとし、王国の崩壊によって、バビロンの捕囚期(紀元前586年から前539年)に、アロン系祭司が分かれて出てきた。
オットーはツァドク系祭司の書いた『申命記』の部分にモーセの五書の原型があるとする。『ヨシュア記』はツァドク系祭司の著作である。アロン系祭司は、アロンをモーセの兄とする物語を加えることで、自分たちの系統の正当化を図ったという。『創世記』の1章から『レビ記』の9章までがアロン系の祭司の著作となる。
どうも、Dがツァドク系、それ以外をアロン系に帰しているようである。
オットーによれば、祭司グループの対抗者、預言者グループが別にいて、それにより、ツァドク系祭司とアロン系祭司とが共同戦線を張るようになり、モーセの五書に両者の著作が入り混じるようになった、と考える。ヘブライ語聖書の中で、モーセの六書以外、ほとんどモーセの名が出てこないのは、預言者と祭司の対立があったからとする。また、『出エジプト記』に十戒が唐突に挿入されたのも、両祭司の著作がまとめられたからであるとする。
オットーは、ヘブライ語聖書全体の形成過程について論じていない。ここでは、ユダヤ人対非ユダヤ人の利害の対立が、祭司と預言者の対立する著作を1つにまとめる必要を起こしたはずである。じっさい、イエスの時代にはいっても、ヘブライ語聖書の編集(書き直し)が行われている。
オットーは、ヘブライ語聖書を単純に宗教書とも文学書とも見ることができず、政治的闘いの痕跡あるいは堆積物であると言っているように思える。
オットーは新しい視点をヘブライ語聖書の読みに加えた。非常に新鮮な視点であるが、ステークホルダーはツァドク系祭司、アロン系祭司、預言者だけではないだろう。
ヘブライ語聖書には知恵の書もあろう。さらに、北のイスラエル王国が崩壊してきたとき、ユダ王国に逃げてきた知識人もいる。
さらに、『士師記』『サムエル記』『列王記』『歴代誌』も歴史的事実ではなく、虚構の可能性がある。例えば長谷川修一はサウル、ダビデ、ソロモンの統一イスラエル王国はなかったと言う。
やたらと長いヘブライ語聖書の構造の理解には、著作者たちの動機分析に先立って、用語法分析や事物(安息日、十分の一税など)を徹底的にやり、客観的な指標が必要と思う。そのためには、AIを使ったコンピューター分析が有効だと思う。
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