これは、ブログ『一水会の鈴木邦男の死を悼む中島岳志に違和感』の続きである。やはり、6年前のYahooでのブログを再録し、中島岳志への批判とする。
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ナショナリズム、宗教、一君万民 (2016/9/24(土))
『愛国と信仰の構造 全体主義はよみがえるのか』(集英社新書)で、中島岳志が次のような問題提起をしている。
「極度の競争社会が拡大すると、高所得者であれ低所得者であれ、不安定な日常に不満と不安を感じる人たちがナショナリズムに傾斜する傾向があります。そして、ナショナリズムの他にもう一つ、そこが抜けてしまった個人の実存を強力に補てんするものがあります。宗教、つまり信仰です。」
この問題提起に全く同感できない。
「極度の競争社会が拡大」という見方は、ウツになる、あるいは、イジめる、イジめられる子どもたちの間にも見られる。「競争社会」とは単なる妄想であり、否定すれば良い。ところが多数の人がこの妄想を共有すれば現実となる。
働いている人の多くは、一所懸命に、しかも長時間働かないと、解雇されると思っている。平日は子どもと顔を合わせない正社員の父親もいる。見ていると、本当につまらない仕事をしている。これでは、奴隷労働である。反乱を起こして、会社の窓ガラスという窓ガラスをどうして割らないのか。
ナショナリズムや宗教に傾斜する前に奴隷労働を否定すべきである。
超越的な天皇のもと、すべての「国民」は平等だと言う思想、「一君万民」を中島岳志がどうして取り上げるのかわからない。超越的な天皇とは何者なのか。
「一君万民」を掲げて反乱を起こし失敗した二・二六事件がある。1936年2月26日に大日本帝国陸軍の青年将校らが、農村の困窮を憂い、「昭和維新」を天皇に訴えるために、1,483名の下士官兵を率いて皇居を包囲した。このとき、昭和天皇は、自分に刃向かう青年将校に腹を立てて、「反乱軍」として処罰せよ、と言い、「一君万民」を掲げた青年将校らは大義名分を失って、投降し、銃殺された。
「超越的な天皇」とは、凡人なのか、天才なのか、超人なのか、神なのか。
明治維新をなしとげた不良サムライ、不良クゲは、「一君万民」など信じず、言うことのことの聞かない天皇を引き下ろし、カイライの天皇をかかげて、権力を奪った。
現在の「象徴天皇」も同じである。象徴天皇を装うのに疲れたと今上天皇(平成天皇)は言う。これって、「象徴天皇制」に無理がある、ということではないか。
中島岳志の問題意識は理解しがたい。天皇はいらない。ナショナリズムも神もいらない。
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