きのうの朝日新聞〈ひもとく〉で、山口理栄が『悩む「フルキャリ」女性 母でなく「一個の人間」として』を寄せていた。「一個の人間として」という考え方には大賛成であるが微妙な点もある。
それは、「働く」ということは、人は昔から女も男も行ってきたのであるが、近年の「働く」は「賃金労働者になる」ということだ。そして、安倍晋三がいう「働く」は「管理職」になるということだ。
私の母は、家でミシンを踏み、カーテンを作ったり、椅子やソファーのカバー作ったりして、現金収入を得ていた。私は小さいとき いつも働く母のそばにいて幸せだった。
農家であれば、女も畑仕事をしていただろう。
小商店や小飲食店では夫婦で働いていただろう。
昔の働き方が崩れ、「賃金労働者になる」ことが「働く」ことになっている。
そして、「管理職」が あこがれの「働き方」という。
「フルキャリ」とは変な言葉である。
「キャリ」とは「キャリア」の略だが、「キャリア」とはどんな意味であるかは、人によって異なる。「キャリア」は、人によってずっと現場にいてその仕事の「エクスパート」になることを意味する。人によっては、「キャリア」は肩書であり立身出世することである。
ハッキリ言おう。私は、女であれ男であれ、立身出世を追う人は嫌いである。管理職(労務管理者)になる女にも男にも敬意を表しない。
山口理恵はつぎのように書く。
〈梅棹忠夫は『女と文明』の中で、サラリーマン家庭の原型は近世武士の家庭であるという。そこでは男性だけが働き、家に残った妻は家事労働に自分の存在意義を見いだしていくが、それは次第に専門業者や家電製品にとって代わられていく。〉
ここで、注意がいるのは、近世武士だろうが、下層武士の家庭では、生きるために、妻は家事労働に加え、わずかの現金収入のために内職をしていた事実である。武士に限らず、裕福な家庭では、妻は家事労働をせず、働きもせず、夫の所有物として、性に奉仕し、上流階級の家と家との絆を強めるための役割を果たしてきたのである。
上野千鶴子は、かつて、社会意識調査にもとづき、つぎのような指摘をした。
第2次世界大戦で多くの男が死に、女性が社会進出できるチャンスが戦後あったのにもかかわらず、当時の母親たちが、娘が働く女にならず、結婚して、女中にかしずかれ、遊んで暮らせる女になることを望んだ。
上野千鶴子は、この社会意識調査結果に、腹が立っただろう。なんて、現実認識が甘いのだろう。なんて、社会性が欠けているのだろう。
女中のかわりに、家庭に電気洗濯機がはいり、クリーニング店ができ、車でスーパーに買い物に行けるようになった。ちょっとお金があれば、女中にかしずかれるかわり、専門業者や家電製品にかしずかれるようになった。
しかし、その結果、ちょっとしたお金を求めざるをえなくなった。女も賃金労働者にならざるを得なくなったのに、専門業者や家電製品にかしずかれるので、夫の所有物から、夫と同じく上流階級の奴隷になっただけのことに気づかない。
夫の所有物からは夫婦喧嘩で解放される。自己主張をすればよい。ところが奴隷からの解放は社会革命がいる。
なんて愚かしいんだ。
NHKのドキュメンタリー『欲望の資本主主義』で、企業は大きくなるためには、より多くの労働者から 収奪しないといけない、労働市場と消費市場を拡大しないといけない、とアメリカで労働政策を担当した元長官が語っていた。女性を賃金労働者にし、後進国の人びとを先進国の企業の労働者にすることで、アメリカの企業は成長してきたのである。
安倍晋三は、少子高齢化、人口減少社会で、国内の労働人口を拡大するために、女性の賃金労働者化を訴えているだけである。
子育てにも仕事にも前向きな働き手を「フルキャリ」と名付けて、そんな方向にかりたてるのは、おかしくないか。支配者階級の要求で、キリのない労働地獄にかりたてられていないか。
女と男の間には愛の生活があるのではないか。ふたりで、愛の生活を築くために働くのではないか。いつのまにか、自分の意志でない奴隷労働を引き受けていないか。管理職になったって、奴隷社会の管理職という名の奴隷にすぎない。
きょう、小池百合子の都知事再選が決まった。女性票が結集したという。世の中は階級社会である。小池百合子は社会変革をなにもしていない。どうして、プレデイみかこのように、アンダークラスの人として、女性は階級社会に怒らないのか。
「フルキャリ」に無理してなる必要はない。「管理職」なんてなる必要もない。階級社会の歯車になるのではなく、階級社会をこわしてこそ、人としての幸せがある。
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