猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

オンライン学習でできるもの、できないもの、新型コロナ

2020-07-04 21:21:55 | 教育を考える

きのう朝日新聞〈耕論〉『オンライン、学べるもの 新型コロナ』で、鈴木大裕が新型コロナ騒動での休校に関しての論調を批判していた。タイトルは『受験=ゴールが進む危険』だ。「議論の前提にある〈学び〉の観念が、あまりにも貧弱」「重視されているのは、受験をゴールと捉えた〈お勉強〉ばかり」と批判する。

鈴木大裕は、つぎのように書く。

〈僕は最初、休校で多くの人が学校のありがたさに気付いたことは、教育のあり方を根本から見直すチャンスだと期待していました。子どもたちが待ち望んだのは、友達と会うことだったり、学校行事だったり、部活動だったり、授業以外のことが多かったのではないでしょうか。〉

考えてみるに、戦前の公教育は、天皇の優秀な臣下を作るものだった。政府が作成した国定教科書を使い、成績の優秀なものが帝国大学や士官学校に進み、官僚や軍人になった。実態がそうかどうかに異論があっても、明治憲法上、建前はそうであった。

戦後、天皇はかざりになった。それなのに、いまだに「受験がゴール」とは一体何なのか。

官僚が最終ゴールではないだろうが、きっと、良い大学にはいって、良い会社にはいって、楽な生活をしたいのだろう。本人はそう思ってなくても、周りがそう思っているのだろう。とくに、働くところが少ない、地方では、その傾向が強いのかもしれない。

鈴木大裕は、つぎのように書く。

〈僕は、こんな学習観で進むオンライン化の議論の行き先が怖い。学校から授業だけを抽出してしまえば、教育は商品化し、合理化が進みます。〉
〈学校の目的が「点数」になったとたんに、子ども一人ひとりの違いは序列化され、競争社会にのみ込まれてしまいます。そうではなく、多様な幸福の形を示し、一人ひとりの自己実現を教育の目標ととらえる。それが「勝ち組」「負け組」という今の社会から脱却する道なのではないでしょうか。〉
〈学校は「人を育てる」場所です。授業はその一部にすぎない。オンライン学習だって、普段会えない人とつながるような、教育の可能性を広げる方法がたくさんあるはずです。そういう視点がないままに進む議論に、貧しさを感じるのです。〉

人間は記憶で動く機械である。記憶を「お勉強」ばかりにつぎ込んで、「人が育つ」はずがない。「資本主義社会だから自分のためだけを願って何が悪い」という大人になってしまう。そして、「平和ボケ」とか「社会はお花畑でない」とか言い出し、世の中を良くしようとしない自分を正当化してしまう。

政府が公教育を始める前は、親が教育をにぎっていた。親が「善悪」を教えていた。ところが、産業革命以降、科学技術の教育と、善き市民の育成を目的とした公教育がどの国でもはやった。日本では、「善き市民」が「善き臣下」と替えられた。残念ながら、戦後も、「善き臣下」が「善きロボット」に替わっただけで、「集団主義」「非個性化」は少しもかわっていない。

「オンライン教育」の問題点は、教えるものと教えられるものとに、分けられることである。学校教育は洗脳の場と言えども、生徒同士が互いに教え合う。学校は、子どもにとって、社会を学ぶ大きな場になっている。いじめが発生するとか、不登校が生じるとか、は、現在の学校教育に何か問題があることを示している。PTAは、本来、公教育を、政府のものではなく、自分たちのものにするための制度である。

政府に逆らうことを忘れた人間はロボットである。クソである。

NPOで私が担当した子どもの一人は、中学受験でチックを悪化したが、新型コロナで休校になったおかげで、チックがほとんどでなくなった。オンライン学習をすると、「聞いて聞いて」と、ハーモニカで昭和のフォークソングを吹いてくれる。

新型コロナは学校による子どもたちへの抑圧を一時的に弱めたが、いっぽうで私のNPOの放デイサービスに悪影響をもたらしている。私たちのところの問題は、集団感染の発生を恐れるあまり、子ども同士で遊ばせることをやめ、早く帰らすことである。

私のNPOは、良い対人関係を築けない子どもたちを集めている。子ども同士で遊ぶことが他人と共感する心を育てる。これは、オンライン学習でできないことである。

そういえば、ハーモニカを吹いてくれた子どもは男の子だが、対面教育のときは、終わると先生と言って抱きついてくる子だった。


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