昨日の加藤隆の『歴史の中の「新約聖書」』(ちくま新書)の批判のつづきである。
加藤は本書で、「《救われていない状態》が《罪》の状態」で、ユダヤ教では「神は動かない、民は罪の状態にある』であるのに対し、キリスト教は、「神が、救う者を救う」と言う。
加藤の「救う者を救う」は、「自助」のことを言っているのではなく、神に人間が働きかけても応答しないが、神は人間に一方的に働きかける、と言っているのだ。すなわち、救うか救わないかは神の自由だと言っている。
しかし、加藤の「救う」の意味がわからない。「救われる」ことが天国に行くことで、「救われない」ことが地獄に行くことになるなら、カルヴァン派のドグマになる。「救われる」が恵まれた人生を送ることなら、これは「運命論」を言っていることになる。
ユダヤ教では、昨日言ったように、神は「守り神」であって、生きている者の神である。ユダヤ人は、死後の世界に、関心がない。ユダヤ人に限らず、メソポタミア文化圏では、神は生きている者の神である。
それに、私のヘブライ語聖書の読みでは、ユダヤ人は神との間に距離を置いている。
エデンの園のエピソードでも、アダムとエバが神に逆らって知恵の木の実を食べても、「罪」とされない。エデンの園から解放され、自分のために働くようになるだけである。「罪」は、兄弟殺しのときに、初めて、出てくる。
また、神ヤハウェがソドムの民をほろぼすとき、アブラハムは、「正しい者と悪い者を一緒に滅ぼすのか」とヤハウェと交渉する。そして、「正しい者が50人いたら町を滅ぼさない」がら「45人」に、「45人」から「40人」に、「40人」から「30人」に、「30人」から「20人」に、最終的に「10人いたら私は滅ぼさない」とヤハウェに言わす。
子ども時代にユダヤ教の本格的教育を受けたエーリック・フロムは、『自由であるということ―旧約聖書を読む』(河出書房新社)で、旧約聖書(ヘブライ語聖書)の神と人間との関係は、互いに関わりあうことで、神は思いやりのある神になり、人間はその神に近くなるという。本の原題は“You shall be as gods”である。
彼は、その本で、旧約聖書の「罪」は、「ハタ」と「アボン」と「ペシャ」に区別されると書いている。
「ハタ(חטאה)」は、「誤ること」すなわち「過失」。
「アボン(עון)」は「意図的に悪を行うこと」。
「ペシャ(פשע)」は「権力や権威や慣習に逆らうこと」。
このことは、『新共同訳 聖書辞典』にも『聖書協会共同訳聖書』の付録にも書かれている。加藤は言及しないが、キリスト教徒はみんな知っていることなのだろう。
弟を殺したカインの罪は「アボン」とヘブライ語聖書に書かれる。ソドムの住民の犯したのは「ハタ」である。このヤハウェは専制君主のイメージで考えれば良い。
「神」とは、ほっとけば、ろくなことをしないというのが、ユダヤ人の理解である。たとえば、『ヨブ記』では、神を畏れるヨブは、ヤハウェとサタンとの賭けの対象にされ、サタンに皮膚病に落とされ、苦しんで神を呪うという物語である。
ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』に「ぼくらみんな、すべての人に対してすべての点で罪があるんだよ」という言葉が出てくる。これは、修道僧ゾシマ長老が、自分の兄が、17歳で死ぬ直前に残した言葉である。周りは「病気のせいで精神錯乱におちいった」と言ったが、ゾシマは「貴族に生まれると 知らず知らずのうちに あたりまえのことかのように、しもじもに かしずかれることだ」と、自分が老いて死ぬ直前に告白する。
「支配」と「従属」の人間関係に気づかずに人を支配すれば「ハタ」であり、気づいて支配すれば「アボン」である。現代人は、「罪」を「神」と無関係に定義できる。
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