猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

民主主義は限界なのか、という問題の立てかた自体がおかしい

2020-02-22 22:42:16 | 民主主義、共産主義、社会主義


2018年6月12日に朝日新聞がドイツの哲学者マルクス・ガブリエルを招いて、民主主義の危機についてのシンポジウムを行った。そのとき、彼のおこなった基調講演『危機に瀕する民主主義』で、次のような一節があった。

《古代ギリシャの民主主義がなぜ失敗したのかについて話しましょう。簡単に言えば、その民主主義が「みんなのための」民主主義ではなかったからです。当時は奴隷がいました。奴隷は、民主主義の基本的な理念と矛盾しています。奴隷は奴隷所有者のために働くことを義務付けられており、自分のしたいことを行うことができません。こうしたエリート主義的なシステムでは民主主義は実現しませんでした。》

じつは、「古代ギリシャの民主主義が失敗したか」は自明ではない。M. I. フィンリーは『民主主義 古代と現代』(講談社学術文庫)で、ギリシャの民主主義が200年安定して続いたという。この民主主義を実践した民衆(デーモス)は、教育を受けた上層階級のひとびとは少数で、多くは、市民であった農民、小売商、職人たちであった。アテナイの民主政治は直接民主制であり、民会とは、何千もしくは何万の18歳以上の市民からなる野外集会であったという。

だからこそ、プラトンが靴職人や船大工が国政に参加すべきでないと『国家』(岩波文庫)でいうのだ。プラトンは、教育を受けたエリートが統治すべきと考える立場であった。

民主主義かエリート主義かは、昔からある争いである。「民主主義」という考え方に根本的な欠陥あるというより、自分が優秀だから他の人たちを支配できるというエリート主義者と、人が人を支配することを拒否する民衆(デーモス)が争っており、民主主義の危機はエリート主義者によって引き起こされる。

バートランド・ラッセルは、古代ギリシャの民主制は、王制派との血みどろの戦いによって、ようやく実現されたものである、と『西洋哲学史』(みすず書房)に書く。古代アテネがスパルタに負けたことで、アテネの民主主義が崩れ、プラトンのようなエリート一族がスパルタの後押しでアテネの政治舞台に躍り出たのである。民主制が古代ギリシアで始まったときは、奴隷にたよった社会ではなかった。

プラトンは口の立つものが民主制から独裁制に導くと『国家』で言っているが、注意深く読むと、民主制のもとで「自由」のため貧富の差が拡大して争いが生じ、私兵を集めるようになり、口の立つものが私兵の力で、民主制を覆すと書いている。

プラトンの言い分では、人のもつ強欲が民主制を覆すと言っているだけで、自分の立場を正当化するために人の強欲性を肯定している。抑圧される立場からすれば、こういう言い分は、たまったものではない。

戦後、日本で、敗戦で「棚ぼた」のように得られた民主主義が後退したのは、第1に労働運動の弱体化、第2にいわゆる「東西冷戦終結」による国際バランス崩壊に起因する。

労働運動の弱体化は、石炭から石油への転換を名目に、国策として全国の炭鉱を閉鎖し、もっとも強力だった炭鉱労働組合を解散させ、ついで、国有鉄道の民営化を強行し、国鉄労働組合を抜けることを条件として、JRへの再採用を行った。また、公立学校の職員に階級制を導入し、教職員組合の弱体化を図った。日本は、エリート主義者が政権を握りしめ、計画的に民主主義の基盤を崩してきたのである。

北海道大教授の吉田徹が、「東西冷戦終結」を民主主義の勝利のように語るが、ソビエト連邦の崩壊は、エリツィンとプーチンの独裁政権をロシアに生みだし、世界中の金持ちは金持ちにとって都合のよい政治を露骨に押すようになった。これが、トランプやブルームバーグが政治の舞台に出てくる背景である。

民主主義はそのために戦うものがいなくなれば、崩壊するのはあたりまえで、民主主義はそれを求めるものの努力によって維持されるのである。

民主主義は限界なのか、という人が、なぜ いるのだろう

2020-02-21 22:54:09 | 民主主義、共産主義、社会主義


《民主主義は限界なのか》というタイトルのインタビュー・シリーズが朝日新聞で始まっている。まだ、連載が2回で、1回目が吉田徹・北海道大教授に聞く『絶頂期から30年、衰退の危機』、2回目が中西新太郎・関東学院大教授に聞く『「強権」のままでいい若者たち』である。

朝日新聞は「民主主義」を守りたいから、このシリーズが始めたのだろう。しかし、「民主主義が限界である」と誰がどのような理由でいっているのか、まだ、インタビュー・シリーズから見えてこない。討論がないから対話も生じない。インタビューではなく、寄稿の形で、民主主義否定論者と肯定論者がかみ合う形で、1週送りで討論をつづけ、レベルの高いものにしたほうが良かったのではないか、と思う。

それに、限界だと言われる「民主主義」とは何かについて、ある程度の合意がなければ、議論になりようもない。理念としての「民主主義」のことを言うのか、その理念を実現するための制度をいうのか、あるいは「民主主義」の実態を非難したいのか、論者によって異なってくる。

ソビエト連邦が崩壊したときが「民主主義の絶頂期」だとか、中間層が縮小したから民主主義が機能しなくなったという吉田徹の主張は納得しかねる。また、「民主主義の限界」というテーマとも無関係である。
      ☆      ☆
まず、民主主義の理念、“government of the people, by the people, for the people”が合意されるなら、あとは、どのように実現するかの問題になる。

トーマス・ホッブズは『リヴァイアサン』で、集まる意思のあるすべてのひとの合議体(assembly)で国が運営される場合は“democracy”と言っている。

しかし、すべてのひとが現実的に集まって討議することは、国の規模が大きくなってはできない。このために、現在は、選挙で選ばれた代表によって、国の運営が討議されている。この合議体を議会と呼ぶ。国のなかに右や左がいると言っても、この選挙制度にしたがっており、その意味で、昔、民主主義制度のあった国は依然として民主主義国家である。

ところで、国の機能は多岐にわたる。たとえば、社会生活のルールを決めること、ひとびとの争いを収めること(裁くこと)、社会生活を維持するためのサービスを日常的に行うことなどがある。

プラトンは、民主主義の国家は役職をくじで決めていると非難しているが、みんなが互いに相手のことを知っている小さな集団であれば、くじでも構わないだろう、と思う。現在では、サービス機関を自立した組織とし、その監督官を直接選挙で選ぶのがふつうである。また、議会がサービスを監視する。

「民主主義の限界」が「現在の民主主義的制度が機能していないこと」なら、その実装である制度を改善していけばよいだけである。何をもって「限界」というのか、知りたい。

選挙制度や裁判官任命制度や政府(サービス機関)の権限とその監視制度など、具体的に議論すべき論点が、いくらでもある。

いっぽう、理念としての民主主義の敵は、「優秀者による統治」というプラトン的考えや、人間は生まれながらにして平等ではないというカルヴァンイズム(Calvinism)である。「優秀者による統治」にプラトンは “βασιλεία”と“ἀριστοκρατία”という名前を与えている。どうして、プラトンなんかを賛美するひとがいるのだろう。

津久井やまゆり園殺傷事件の最終弁論―失敗の裁判員裁判

2020-02-20 22:22:22 | 津久井やまゆり園殺傷事件

きのう、2月19日に、相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で利用者19人を殺害し、職員を含む26人に重軽傷を負わせた件の裁判が、横浜地裁で結審した。

きょうの朝日新聞の神奈川面に、19日の最終弁論の要旨がのっていたが、弁護側のスタンスがよく分かる記事であった。

その最終弁論要旨をさらに圧縮すると、「検察側が根拠とする精神鑑定」に誤りがあり、「被告が当時、ブレーキが壊れ、変な方向にアクセルが入りっぱなしになった状態。自己を制御する能力は無かった。病的で異常な思考で実行した可能性がないと言い切れない。被告は精神病を患い心神喪失の状態にあったので、無罪を言い渡されるべきだ」となる。

私は「検察が根拠とする精神鑑定」に誤りがあるとするのは、その通りだと思う。しかし、精神鑑定に誤りがあるからといって、「無罪」になるわけではない。

私が誤りだというのは、反社会的パーソナリティ障害との診断のことで、アメリカの精神医学会の診断マニュアルDMS-5の「鑑別診断」の項に次のように書いてある。

「成人で反社会的行動が物質使用障害を合併している場合、反社会性パーソナリティ障害の特徴が小児期から成人後まで継続していないかぎり、反社会性パーソナリティ障害の診断はくだされない」。 
(ここで「物質使用」は “substance use”の訳で、覚醒剤、大麻、アルコール、精神科で処方する薬剤などのことをいう。)

私自身は、刑法第39条の適用を精神鑑定にたよること自体に反対である。反社会的行為は反社会的行為によって処罰すべきである。刑法第199条の「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する」にもとづいて裁くべきである。

刑法39条「1.心神喪失者の行為は、罰しない。2.心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する」は、明らかに錯乱している状況にある場合に限定すべきであり、その場合には錯乱しているものを放置した者の責任が問われなければならない。

弁護側は、公判をつうじて、錯乱している被告を放置した責任をだれにも告発していない。また、明らかに錯乱していたという裏付けがない。

弁護側は、弁護側の精神鑑定で「大麻精神病、大麻の長期常用による慢性精神病」としている。この弁護側鑑定にたいして、公判でどのような討議があったかが、メディアの情報では一切わからないが、「鑑定は合理性を欠き、信用性に疑問がある」という言葉を返したい。

「精神病」とは、統合失調症に類似した症状をもつことを普通はいう。しかし、被告には「障害者を安楽死させるべきだ」「自分で抹殺する」という信念のもとに、計画をねって犯行を実行している。いっぽう、「精神病」の状態では、脳の機能が低下しており、計画的犯行ができない。場当たり的な犯行になる。

弁護側は、「大麻精神病」の裏付けとして、「常識では理解できない」「死刑になる可能性も検討していない」「この思考は奇異」「きわめて軽率、無防備」を連発している。

ここで、ヒトの心を常識でシミュレーションできるという誤りを犯している。ヒトの心をシミュレーションして人を裁いては いけないのだ。
ヒトの心をかってにシミュレーションして、無罪だ、死刑だと、していけないのだ。

被告が「重度心障者」と心が相互に伝わらないと言っているのは、被告が相手の心をシミュレーションできないことを言っているのだ。被告と同じ過ちを犯していけない。

また、「大麻精神病」と言いながら、芸能人の薬物使用にたいしては厳しく、「やんちゃな」町の若者の大麻使用を見過ごす、メディアや社会に言及しなかった弁護側の態度は不誠実に思える。

また、復讐心をあおるメディアにたいする弁護側からの批判が弁護側から聞こえなかった。弁護側は「死刑制度」をどのように考えているのだろうか。

被害者学の諸沢栄道が朝日新聞記者に語った裁判批判は的をえている。

「裁判には法的責任を問う役割に加え、動機を解明して事件の再発を防ぐ責務があるという。だが、この公判では被告の成育歴を明かす両親の供述調書や、園での働きぶりを示す同僚の証言など、真相解明に欠かせない証拠がほとんど明らかにならなかった。」

弁護側がすべてを大麻のせいにするのは無理があり、事件の再発を防げない。また、被告を死刑にしても、事件の再発を防げない。

どうして左より中道がよいのか、藤原帰一の大統領選予備選評の評

2020-02-19 23:42:48 | 民主主義、共産主義、社会主義
 
きょうの朝日新聞夕刊に、藤原帰一が『時事小言』で、アメリカ社会が大統領選で左右の分断が加速していることを嘆いている。藤原の嘆きがわからない。クリントンやブッシュの「中道」のどこがいいのか、わからない。
 
第2次世界大戦の前のアメリカには、共産主義者や社会主義者が都会に一杯いた。だから、フランクリン・ルーズベルト大統領はニュー・デール政策に行なえた。大恐慌で職を失ったアメリカ国民に政府が働く場所を与えた。このときのダム建設や道路建設が、その後のアメリカの繁栄の礎になった。また、ルーズベルトはソビエト連邦と協力してファシズムやナチズムを抑え込めた。また、国際連合を作ることができた。国際連合は、イタリア・ドイツ・日本と連合して戦った国々の集まりを恒久化するものとして建設された。
 
自由主義と個人主義に立脚した共産主義、社会主義が確立するはずだった。
 
ところが、1948年の大統領選民主党予備選で、ルーズベルトの政策を引き継ごうとするヘンリー・A・ウォレスが、ソビエト連邦に忠実な隠れ共産主義者だと中傷され、ハリー・S・トルーマンに敗れた。この、共産主義者が外国のソビエト連邦のために働いているという排外主義的妄想が、共和党のジョセフ・マッカーシー上院議員のもと「赤狩り(red scare)」という形で、1950年前半に猛威をふるう。共産主義者と思われたものは、アメリカ議会に呼び出され、共産党員、シンパという自分の罪をみんなの前に告白し、他の共産党員、シンパを告発させられた。
 
これは、人の思想信条の自由を奪うだけでなく、人の相互の信頼感を根こそぎに傷つけるものだった。私は、左翼思想がアメリカで根絶えたと思っていた。
 
だから、バーニー・サンダースが2016年の民主党予備選に出てきたことは私には驚きだった。アメリカに左翼思想がよみがえったのだ。そして、今年の民主党予備選では、バーニーが選択しうる候補であることを全アメリカで認識されるようになっている。
 
べつに、「中道」であるから、いいわけではない。貧困層をなくすことのほうが、中間層をふやすよりも重要ではないか。
 
藤原帰一は4年前に朝日新聞に「小学校の先生に教わった民主主義とは、要するに多数決のことだった」と書いた。この真意はわかりかねる。民主制をバカにしているように思える。2400年前のプラトンも民主主義をバカにして「(民主制では)その国における役職はくじで決められることになる」といっている。藤原はプラトンと同じく、優秀者が国を統治すればよいと考えている。民主制は儀式で、左や右が選ばれていけないと考えている。
 
私からすれば、なぜ、左がいけないのか、民主制がいけないのか、わからない。民主主義とは、 “government of the people, by the people, for the people”(人民の、人民による、人民のための統治)であり、左が求めてきたものである。
 
バーニーは企業や団体からの寄付金を拒否し、個人からの小口献金で、民主党予備選を戦っている。これは良いことではないか。

弁護人が弁護人としての責任をはたさなかった、津久井やまゆり園殺傷事件裁判

2020-02-18 22:13:14 | 津久井やまゆり園殺傷事件

きのう2月17日、津久井やまゆり園殺傷事件裁判の、検察の論告求刑が、横浜地裁であった。あす19日に、弁護側の弁護側の最終弁論があり、結審する。判決は3月16日午後1時半から言い渡されるとのことである。

昨年の9月30日に地裁が発表した公判日程では、26回の公判がある予定であった。ところが、これまでに4回の公判キャンセルがあり、そして、あす以降の公判はキャンセルされ、第17回の公判で判決が下される。

これは、検察側、弁護側、地裁側がグルになって猿芝居をうっていたからだ。はじめから、3者で争点を被告の刑事責任能力の有無とに絞っている。ところが、被告が自分はアタマがおかしくない、責任能力があると、言いだしため、この猿芝居が続行できなくなった。それで、26回の公判が17回になったのだ。

裁判員裁判を短期間で円滑にすすめるために、検察側、弁護側、地裁側が事前に争点整理と称して談合を行うが、これは裁判員裁判の目的に反している。裁判では検察と弁護側が争うことで意外な展開が生じ、それを裁判員が市民感覚で有罪・無罪を判断するから意味がある。新しい共犯者が見いだされるかもしれない。

被告が言うように、今回は被告に責任能力があることは明白だ。じつは、「責任能力」という言葉自体はおかしくて、ほんとうは、日本の刑法第39条に該当しないということである。

日本国刑法 第39条 「1.心神喪失者の行為は、罰しない。2.心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。」

重度障害者への差別、憎悪は、大麻を週に何回か吸ったことでは生じるものではない。

殺人は殺人である。行為で裁かれなければならない。日本国刑法での殺人にたいする刑罰の選択範囲は、非常に広いのだ。

日本国刑法 第199条 「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する。」

したがって、被告は26人も人を殺したという事実を認めているのだから、弁護側は、あくまで、この量刑で争わなければならない。

すると弁護側が主張すべきことは、次の2点であった。

(1)社会は、とくに、津久井やまゆり園は、被告の犯行を防げたのではないか。防がなかった社会、とくに、津久井やまゆり学園に落ち度があったのであり、その分だけ、被告の罪を相殺しないといけない。

(2)被告が暴力的な思想の持ち主で憎悪の対象をせん滅しようとしたといえ、社会が被告を社会からせん滅することは、被告と同じ暴力をふるうことになり、死刑の選択はやめるべきである。

今回、津久井やまゆり園の監視カメラは外部に向かってだけあり、内部における虐待を監視するようになっていなかった。
また、内部の施設利用者が外部に生命の危険を連絡する手立てがなかった。
また、被告から重度障害者殺害の計画を聞いた園の職員は、上司にそれを告げたのにもかかわらず対策をとらなかった。
また、被告といっしょに大麻を吸いながら、殺害計画を聞いた被告の友人たちの罪が問われていない。
被告が重度障害者を殺すべきだという手紙を国会議長に渡した段階で、頭がおかしいとして、精神科医に責任を押し付け、刑事事件として対策を検討しなかった。

すなわち、被告の大量殺傷を防げたかもしれないポイントがいっぱいあるのだ。裁判員裁判の結果、それでも、死刑になるかもしれない。しかし、弁護人が防げたかもしれないポイントを指摘し、改善を訴えなければ、もっと最悪の事件が起きるかもしれない。

また、「汝、ひとを殺すなかれ」という。合法的な殺人があるという考えは野蛮なのだ。死刑は廃止すべきである。罪をゆるす必要はないが、復讐心から被告を殺せという大合唱は避けたい。それは、憎しみから人を殺すという、人の心の闇を助長するからである。今回は、裁判員を説得できないとしても、死刑廃止を世の中に弁護側は訴えるべきである。

以上の2つの視点から、今回の弁護人は弁護人としての責任を果たさなかったと思う。